部誌13 | ナノ


世界が三度回ったら



 世界から音が消えた。
 コロセウムの歓声、行き交うひとびとの足音、そして隣を歩いていたはずのかれの、天草四朗時貞の声さえも一切が耳朶を震わせない。膜を隔てたようになにも聞こえない。はく、と開いた口から出た呼気が喉を震わせた振動は伝わるのに、何の音も鼓膜を揺らさない。


「 ?      」
 私に向き直った天草が、怪訝そうに、あるいはそう思っていいのであれば心配そうに顔を覗き込んでなにごとか言っている、その光景は見えているのに、私の耳は本当にどうしてしまったのか、そのことばの欠片さえ掬い取ることができない。わからない、なに? と発したつもりの呼気がその通り発音されているかさえ確かめることができない。通りかかったらしいフランスに縁深いサーヴァントたちが天草と私を見留めて声を掛ける。わからない。聞こえない。聴こえない。
 コロセウムを模したシミュレーションルームで去年に引き続き開催されることと相成ったネロ祭2017。その麗しき祭典の煌々とした明かりは、この細い通路の半ばまで差し込んでいる。つい先ほどまでそのひかりのただ中で絢爛たる戦いを披露している天草を、ジャンヌ達を、数多の渡り合うサーヴァント達を応援していたはずだ。周りの歓声だって剣戟の激しい音だって拍手喝采でさえずっと、ずっと聞こえていたのに。
 私の肩を掴む天草の指に力が籠もる。いたい、と思わず口にした気がするけれど、それさえ私の耳には届かなかった。眉を顰めたその表情が心配であるならば私はどんなに幸せ者だろうか。
「 、 、      」
 天草の薄い唇が何度もなにかの音を形取る。サンソン医師が通りかかった職員になにか指示している。マリー王妃様が眉を下げて心配そうな顔で私の手を取ってくれた。白百合のようにしなやかで可憐な指先のあたたかさで、血の気が引いていることに気付く。









 本当になにも聞こえないとき、人の耳はしんとした空気の震えすらも捉えられないのかと呆然としながら、私は天草に逢うよりずっと前のことを、思い出していた。

 天草四朗時貞は、このカルデアに「少女」が足を踏み入れたのと日を同じくして召喚された。
 だからこれは、あなたの知らない世界の話。
 私の手をも離れた、一度目の世界の話。
 暗転。回想に続く。

「マスター、って、伴侶のようなものよね」
 ほんのりと声に桜色の喜色を乗せて、歌うように白銀の髪の少女が言った。
 思わず紅茶を啜っていたティーカップを取り落としそうになってカチャンと音をさせる”私”を咎める様子もなく微笑ましげにする彼女になんだか気恥ずかしくなって頬を掻く。
「そんなこと、言われると思わなかった。マスターとサーヴァントは、マスターとサーヴァントじゃないの?」
 いや、一部、というか結構な割合で”私”のことを安珍様だとかトロイアだとか好き勝手名付けるひとたちもまあ、いるけれども。それはそれ、”私”を通して在りし日の幻影を見ているだけに過ぎない。それを悔しいとか、悲しいとも思わない。”私”はそのための透明な器であり、そもそも私達の前にいる彼らこそ、ヒトが焦がれ夢見る幻影、形ある影法師に他ならない。
 だからといって彼女の花びらのような美しい唇から齎された伴侶、という響きを、「かつて在りし日の彼女が嫁いだ王の如く」と解釈するには、少女の瞳はまっすぐに”私”を見ていた。
「そうね。あなたが私を喚んでくれた」
 そっと、白いグローブを填めた華奢な手が伸ばされる。カルデアのどの部屋にも備え付けてある無機質で質素な白いテーブルでさえ、彼女と向き合って囲んでいるというだけで宮廷のそれに思えるのだから不思議だ。
 およそ戦うこと、ひとを害することを知らぬようなやわらかな指が手の甲に触れる。赤く刻まれた令呪に重ねられた手は、あたたかかった。
「だから私、あなたにこうして触れることができるのね」
 純白の装束に身を包んだ彼女は、両手いっぱいに祝福を受けた花嫁のような微笑を浮かべていた。
 マリー・アントワネット。悲劇の王妃。そう呼ばれたひと。
「マスター、わたしのかわいい人、どうか、」
 そこで頁は閉じられた。言葉の続きはもはや知り得ない。
 ぼうけんのしょがうしなわれました。暗転。リセット。

「 、      」
 何度目か分からない天草の呼び掛けは相変わらず聞こえなかったが、私はひとまず頷いた。
 あれからなにがどうなったのか、ここではないいつかのフラッシュバックに呆然としているうち、気付いたら見覚えのある部屋のベッドに座らされていた。見覚えのあるというか、天草の部屋だった。
 ぴんと張ったシーツの清潔な手触りも、かすかに残る天草の香水の香りも分かるのに、やはり音だけが聞こえない。
 どうしたものかと思いつつ、そういえば目は見えるのだから筆談すればよいのではと気付く。
 勝手知ったる男の部屋とばかりに引き出しを漁ってペンとメモ帳を引っ張り出して『ごめん さわがせて』と書いて見せると、わかりやすく渋面になった。
「 」
 窘めるような目でなにか言ってペンを受け取った天草の筆跡はいつもより少し荒かった。






『謝ることはないでしょう。体は?』
『元気。耳がきこえないだけ』
『だけではない』
 メモ帳一つに二人並んで書き込むのに隣り合って座っていた肩に、ずしと体重を掛けられる。抗議のつもりだとしたらあんまりにもかわいい。
「 」
 不意に頬に、天草の手が触れた。至近距離で見つめられて、天草の唇が動く。
 なにも聞こえないのに、なにも聞こえないからなにも分からないはずなのに、どうしてか鼓動が早い。
「 」
 ゆっくりと、薄いけれど整った形の唇が音を形作って、まるで音が温度になってしまったかのように、あたたかな手のひらが耳に当てられる。
 そんなに。
 そんなに、呼ばないで。
 声がそのように出たか、やはり私には分からなかったけれど、天草は目を細めて笑った。次いで伏せた白い睫毛の影が、天草の琥珀色の肌に淡い影を落とす。

 目を閉じたら天草とこうしていることすら分からなくなってしまいそうで私は目を閉じることが出来なかった。

 明転。
 結局バグはスマフォを初期化したらすっかり直ったし、今回は引継コードをばっちり発行していたので事なきを得た。



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