部誌13 | ナノ


世界が三度回ったら



一度目の世界では、交じり合う縁さえなかった。
二度目の世界では、互いの瑕を抉り合うしかなかった。
そうして、――――。


****


「素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。――」

 ある禁書に記された魔術儀式。その理論は、現代において用いられる魔法理論とは大きく異なっていた。

「繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 魔法と魔術の定義。根源という概念。魔術師の在り方。根本的な部分からして違う。
 妄想の産物と一笑に付すには精緻であるが、新理論の発見ともてはやすには現実離れしすぎている。

「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 最大の相違点は、神秘の秘匿だろう。
 俺達が扱う魔法は、“誰かに知られること”は効果・効力に影響しない。マグルに対する魔法や魔法族の秘匿は、不可侵の境界線を敷くため。互いの生活を守るためのものだ。魔法族同士なら情報も交換するし、ホグワーツのように魔法を制御するための学校とてある。“知られること”は、魔法の効果・効力自体に何ら関係ない。
だが、その本の筆者は、神秘が薄れることは魔術的価値の喪失と同義と説く。すなわち、魔術とは神秘であり、神秘であり続けるから魔術として存在できる、と。
 名も知れぬ筆者が残したソレは、いつしか魔法理論の研究者の間で禁書として封じられるようになっていった。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 けれども、いつの世にも好奇心旺盛な馬鹿はいるもので。ほんの数例ではあるが、魔術儀式――英霊召喚の検証報告が残っている。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 陣から光が溢れる。魔力の奔流。気を抜けば、一瞬で足場が吹き飛びそうな圧迫感。
ここから現れるモノは、人間ではない。英霊と呼ばれる存在。神話や伝説の中で為した功績が信仰を生み、その信仰をもって人間を精霊の領域にまで押し上げたモノ。
 光が、魔力が収束する。人影が現れる。
 青みがかかった柔らかそうな長髪。くすんだ橙色の襟巻。黒いインバネスコートの下は、くたびれた和装。得物は、日本刀。陣の光を受け、金が混じった橙がにんまりと細められる。

「わしが土佐の岡田以蔵じゃ。人斬り以蔵の方が、とおりがえいかの」

 紡がれた名に、失笑が零れかけた。地縁に人の縁が勝ったか。なるほど、確かにこの男なら俺の希望に合致する。

「ようこそ、アサシン。お前を歓迎しよう」


***


 硬質な金属音。正確に急所を狙う切っ先をかわし、一歩踏みこむ。俺が放った一太刀を、アサシンの刀が鎬(しのぎ)で弾いた。瞬間、浮いた剣先を見切られた。刀身が、頭蓋を割ろうと迫ってくる。大きく飛びのいてかわす。アサシンは追ってこなかった。
 そのまま間合いを取る。殺気が突き刺さる。アサシンは脇構えをとった。いや、少し違う。刀が見えない。動かない。誘っている? じわりとした恐怖と、高揚が湧く。足元を整える。俺は、一歩踏みこんだ。

 『必要の部屋』の機能と式での稽古には限界があった。確かに、『必要の部屋』は便利だ。ホグワーツ創設者4名のこだわりの結晶である。ホイッスルからストップウォッチ等の小物や練習用の人形(的)の提供から、重力や酸素濃度等の環境設定まで行える。だが、そこまでだ。かつてのこだわりも、自律式の戦闘人形までは対応できなかった。
 俺が使える折鶴では、対人戦闘の稽古にはならない。ならばと、十和師範から人型の式を譲り受けてみたが、ホグワーツの空気があわないのか、俺の使い方が拙いのか、日本で師範が操作した時ほどの手応えがない。俺自身と同等か、それ以上の戦闘技術を持つには至らなかった。
 本家の次期宗主を決める宗主戦。その最終戦が6月と決まった。これまでは、勝てた。だが、この次は? 次は奴だ。俺より格上。このままで勝てる保証はない。
 サーヴァントの召喚に踏み切ったのは、藁にもすがる思いだった。召喚術式を解き、魔力の凝縮体である令呪を刻んだ。奴に勝つ為の策があるなら、全て試しておきたかった。
 そうして召喚したのが、アサシン・岡田以蔵である。幕末四大人斬りの1人に数えられ、「人斬り以蔵」と恐れられた剣士。小野派一刀流、鏡心明智流、直指流剣術等、様々な流派を扱ったという。俺が知る限り、岡田以蔵が皆伝に至った流派はない。しかし、彼には間違いなく天賦の才があった。そして人斬りとしての暗躍が、その剣をより実戦に近づけた。
 宮本武蔵、沖田総司等、剣の天才は数多くいる。イギリスなら、湖の騎士・ランスロットか。師と仰ぐなら、江戸柳生最強と謳われた柳生但馬守宗矩も適格だろう。だが、俺が欲しかったのは剣に生き、剣に死んだ、高潔な狂人ではない。それは俺の手に余る。俺が欲しいのは、奴に勝つ手段だ。
 だからあの日、魔法陣から現れた男が岡田以蔵を名乗った時、俺は単純に嬉しかった。


 甲高いタイマーの電子音が、時間切れを告げる。
 刀を鞘に納め、小さく息を吐いた途端、疲労感が圧しかかってきた。流れ始めた汗が染みる。耳障りな喘鳴。膨らみ方を忘れた肺が忌々しい。それでも、以前のように床に倒れこむ気になれないのは、憮然とした面持ちのサーヴァントがいるからだ。
 今回の召喚は、本来の聖杯戦争とは異なるイレギュラー。聖杯による十全の支援は得られず、サーヴァントの戦闘力は、ほぼ半減している。だとしても、アサシンの戦闘力は俺の数段上。魔法による『強化』を施してなお、攻撃をかわし喰らいつくことがやっとだ。その実力差は追いつこうとする俺にはありがたいが、彼のサーヴァントにはつまらないものだろう。
 アサシンの召喚から、すでに10日。その間、奴はひたすら俺の訓練相手を務めていた。幕末の四大人斬りと恐れられた男が、天誅を成すでなく、護衛を務めるでなく、格下の戦闘訓練の付き合いである。ぬるま湯も甚だしい。俺が奴の立場なら、さっさと訓練にかこつけてマスターを斬っている。
 それが判るからこそ、極力無様な姿は見せたくなかった。意地だけで背筋を伸ばし、いまだ抵抗を続ける心臓と肺を叱咤する。

 時計の針は、6時30分。ストレッチして、シャワー浴びて、着替えたら、ちょうどいいくらいか。用意しておいたタオルを顔に押し当て、大きく息を吐く。荒れた呼吸を、無理やり抑えつける。
 1時間目は、レイブンクローの3年生のDADAが入っている。担当教授であるアンブリッジの意向で、今年のDADAは基本的に座学のみ。助教授の俺の担当は、受験生の実技補習だけだ。3年生は実技補習の対象ではないし、別に出席する必要もないが、出ないなら出ないで、あのガマガエルは鬱陶しいのだ。
 だが、今はそれよりも腹立たしいことがある。顔を拭い終わったタオルを首にかけ、俺はアサシンを振り返った。

「格下相手でつまらないのは判るが、手を抜くのはやめろ。ムカつく」

 2、3日前は、もっとえげつない踏みこみだったろ。足運びも、斬撃も、数日前より今日の方が鈍い。俺自身の実力不足は痛感しているが、あからさまな手抜きは腹が立つ。

「昨日あたりから、身体が重いんじゃ。動かしにくい」

 滲んだ不服は、つい先ほど見たソレと同じだった。つまり、あれは俺の不甲斐なさではなく、アサシン自身の不調に対するものだったと? うっかり安堵しそうになる自分が嫌だ。
 アサシンに近づく。自身よりいくらか下にある頬を捉え、上向かせると、鋭い舌打ちが届いた。刺々しい敵意には構わず、意識をアサシンの呼吸に集中する。
 ああ、やはり。本来なら令呪を介して繋がっているはずのパスに、不具合があるようだ。俺とアサシンの間にある魔力の“糸”が、酷く細く、弱々しい。ともすれば、ふつりと切れそうだ。
 本の記述を思い出す。魔力供給の方法。脳裏に浮かび上がった記述が、頭痛を引き起こした。だが、今パスを修復しておかなければ、次は俺がいない場所で魔力切れに陥るかもしれない。それは、拙い。

「パスの修復がてら、俺の魔力を渡す。いくつか方法はあるが、……人工呼吸と血とどっちがいい?」
「てっとり早いんは?」
「お前次第」

 無精髭の生えた頬が引き攣る。アサシンは鼻筋に皺を寄せ、自身の頬を捉えていた俺の手を打ち払った。ついで、心底忌々しげに「血じゃ」と答えた。あの【闇の帝王】といい、アサシンといい、俺の血は栄養ドリンクかよ。
 タオルの汗がついていない部分で、左の前腕を拭う。指先では時間がかかるし、以前のような首からの採血など考えたくもない。汗と埃を拭った前腕の内側。拳を握り、薄く浮き出た血管を横切るようにナイフを滑らせた。皮膚上に赤い線が滲む。拳の力を強めると、ぷくりと血の玉が顔を出した。
 アサシンの眼前に、傷口を差し出してやる。先刻のように抵抗するかと思ったが、奴は存外素直に俺の腕を受け取った。
 俺の手首を持ち、アサシンが傷口に顔を寄せる。汗の臭いが気になるのか、一度だけすんと鼻を鳴らしてから、そこに舌を這わせた。どうやら、俺の血は奴のお気に召したらしい。舌を這わせたのは二度ほど。すぐに傷口ごと前腕に喰いつかれた。口唇と歯で薄い肉を抑え、舌先で傷を広げて血を吸い出される。
 手持無沙汰の俺は、ぼんやりと蓬髪越しの横顔を眺めた。改めて見ると、アサシンは存外幼い容姿をしていた。刀を構えれば炯々たる橙が、今はほんのわずか甘さを纏い、緩んでいる。犬かな。アサシンの拘束を受けていない左の指を動かし、頬の無精髭と耳元をからかってみる。そんな俺の行いは奴の不興を買ったらしく、報復とばかりに前腕を噛まれ、傷口を吸い上げられてしまった。

「ごっそさん」
「お粗末様」

 取り戻した左前腕には、俺自身がつけた傷とともに、生々しい歯型と鬱血痕が残されていた。どう見ても、数日は消えない濃さである。これでは、気安く袖もまくれない。
 低くアサシンを呼ぶ。奴は、してやったりと橙を細めた。人斬りの通り名に似合わない、幼い笑顔だった。


***


「最近、ゴーストの間で妙なゲームが流行っているらしいんだが、何か心当たりはないか?」

 インバネスコートが揺れた。ちらりと視線を向ければ、それを察した橙が泳ぎだす。判りやすすぎないか、コイツ。

「聞いた話じゃ、丁半博打らしい」
「昼の間暇じゃったき、ごぉすとどもと少し打っちょった」
「アイツら相手じゃ、お前しかツボ振りができないだろ」
「そうじゃな」
「つまらないんじゃないか?」
「それ、ほどでも……」
「今日捕まえた馬鹿が、随分堂にいった口上を披露してくれたぞ」
「はぁ?! あん阿呆、気ィつけェちあれほど……」
「アサシン?」

 尻尾出しやがったな。俺の反応から下手を打ったと悟ったか、アサシンは口を噤んだ。橙の襟巻に口許を埋め、猫のように首をすくめる様は、叱られた子供そのものである。
 ちなみに口上を披露した馬鹿は、言わずと知れた【悪戯仕掛け人】達だ。少々英語訛りはあるものの、鉄火場の空気を再現するには十分の迫力。ツボ振りの手際も見事なもの。立ち会った寮監殿は言葉もなく立ちつくし、俺は彼女が復活する前に、彼らに減点とタンコブを与えて放り出した。

「ガキ相手に打つな」
「金は賭けちゃあせん。ただサイコロで遊んじゅうだけや」
「それでもだ。アンブリッジに掴まれたら、ロクなことにならん」
 
 ゴースト相手の暇潰しならともかく、生徒が関わってくるなら止めなければならない。大した仕事も娯楽もないホグワーツの生活が、退屈極まりないのだとは察せる。
 いっそ、次の休みにでもロンドンに連れ出すそう。適当にガス抜きすれば、落ち着くはず。英霊の現身とはいえ、ストレスは溜まるようだし。こんなことを惜しんで、必要な時に働かせられなくては召喚した意味がなくなる。
 マグルの店より、魔法街の方が楽か。アサシンを連れて行っても、妙な騒ぎにならない所。馴染みの酒場、娼館を思い浮かべる俺の耳に、その声はすとんと落ちてきた。 

「わしが斬っちゃろうか?」

 こちらを見据える金を帯びた橙は、ただ静かに凪いでいた。つい数分前、首をすくめ俺の反応を窺っていた子供はいない。恐ろしく静かで真っ直ぐな眼。塗り固めた嘘すら突き通す視線に、わけもなく焦りを覚えた。
 瞼を伏せ、無遠慮な橙から意識をそらす。

「必要ない」
「邪魔なんじゃろう?」
「天誅の名人が斬る首じゃない」

 それに、

「アレには、まだ引っ掻き回してもらわないと」

 確かにドローレス=アンブリッジは、ホグワーツにとって獅子身中の虫だ。ハリーの安全や、ダンブルドアの意志を鑑みれば、一刻も早く排除しなければならない。アサシンの申出を実現できれば、どんなに楽か。
 だが、いてもらわなければ拙い部分もある。少なくとも、アンブリッジがホグワーツにいる限り、ダンブルドアもマクゴナガルも学校を離れることができない。あの優しい老魔法使いは、危険因子を残したまま多くの生徒を、“家族”を放り投げられない。ならば、動くのは手足である【不死鳥の騎士団】だ。皆、一筋縄ではいかない連中ばかりだが、ダンブルドアに比べればマシだ。まだ、腹の内が読める。
 アンブリッジが傍若無人に振る舞えば振る舞うほど、周囲の意識は奴に引き寄せられ、俺は行動範囲が広がる。アサシンの召喚とて、その一つ。奴がいなければ、マクゴナガルもスネイプも誤魔化されてはくれなかったろう。少なくとも、俺が本家宗主を襲名するまでは、悪足掻きしてもらわねば……。
 不意に、掠れるような声が届いた。先刻の焦りが、息を吹き返す。両眼を開き、あの橙を探す。

「アサシン?」
「なんちゃあない。すまんの、いらんことを言うた」

 橙は伏せられていた。話は終わったと、黒いインバネスコートが翻る。散るように霊体化していく後姿を眺め、俺は自身の失策を悟った。


***


 2月後半。ホグワーツは、魔法省闇祓い局からの客人を迎えた。
 バーミンガム近郊において、不可解な死亡事件が発生した。被害者は3人。全員マグル。社会人、学生、浮浪者と素性はバラバラだ。他の共通点は、身体のどこかに歯型のような跡が残っていたこと。
不審に思った闇祓い局が調査したところ、以前にも数件の類似事件が発生していた。新たな共通点が浮上した。全員、死亡日が満月の夜から1週間以内だった。
 満月の夜。歯型。闇祓い局は、人狼による事件の可能性有と判断。推定4体の人狼がバーミンガム近郊に潜伏しているとし、警戒に当たっていた。
 そして、満月前夜であった昨日。警戒に散っていた、闇祓い2名の死亡が確認された。

「で、俺に仕留めろと」
「虫のいい話だとは判っているよ。だが、時間がない。闇祓い局は、脱走した【死喰い人】の追跡に手いっぱいだ。そこに、先日発行されたハリーのインタビュー記事。魔法省は苦情対応に追われている」
「自業自得だろう。俺にケツを拭いてやる義理はない」
「頼む。バーミンガムは魔法干渉の難しい土地だ。魔法を使わず、迅速に、確実に4体の人狼を処理できるのは、君とそのサーヴァントくらいだ」

 闇祓い局の代表として訪れたキングズリー=シャックルボルトは、俺の背後を見遣り苦々しげに呻いた。
 ソファに座る俺の背後には、アサシンが控えている。シャックルボルトからの報告が始まるまでは、居心地悪そうにしていたが、今は何やら楽しそうだ。日々のストレス発散にと、俺もそれなりに娯楽は提供してきたつもりである。しかし、奴は人斬りと恐れられた剣士だ。稽古中の様子からも、元々好戦的で血を好む気性だと窺える。酒も博打も、実戦の魅力には劣るのだろう。
 アサシンのガス抜きついでに、魔法省に恩を売れるなら、たまにはいいか。

「報酬は?」
「危険手当込みで200ガリオン」
「1体100だ。400寄越せ」
「判った。500ガリオン出そう。その代わり、今夜中に必ず仕留めてくれ」
「上等。任せろ」

 シャックルボルトは、マグル除けの結界敷設を準備する為、話が終わると早々にホグワーツを発った。今回の依頼は、ダンブルドアはもちろんアンブリッジも了承済みだ。心置きなく暴れられる。
 
「人狼っちゅうのは、強いがか?」
「強いぞ。人間よりずっと速くて、重い。サーヴァントには負けるがね」
「えいえい、存分に斬れるならえい」

 アサシンが、にんまりと笑う。興奮の発露か。金を帯びた橙が、鮮やかな朱に染まった。


 深夜、バーミンガム。俺は大通りから1本外れた路地を、1人で歩いていた。杖はジャケットの内側、刀を鞘袋に隠した。酒が入ったマグルを装い、ふらりふらりと歩く。途中、絡んできた連中にはまとめて拳をくれてやった。
 後方に気配が一つ。以前対峙したものと似ている。おそらく、人狼。足元の小石を蹴る。路地の暗がりに、軽い音が響く。数秒の後、周囲300mにマグル除けの結界が敷設された。人狼も気づいたか。気配に動揺が混じる。
 歩く足を止め、振り返る。鞘袋から刀を取り出す。

「残念だったな。ここまでだ」

 影がいた。人狼の身体の向こう。影の中で炯々たる朱がゆぅるりとしなる。直後、白刃が走った。
 血飛沫が舞う。路地の奥で何かが動いた。2体目だ。仲間が斬られ、動揺したか。物音。逃走を選んだ。影の朱が、ちらりと俺を見る。俺が鯉口を切ると、影――霊体化を解いたアサシンは路地へ駆けていった。物音が聞こえた方角だ。あちらは、奴に任せよう。
 左足を半歩引く。腰をわずかに落とす。アサシンが追った1体とは別に、路地の暗がりが動いた。同じ路地の前方に1体、近くの建物の屋上に1体。俺が気づいたことに、向こうも気づいた。夜気に滲む殺意が、一段と濃くなる。
 前方の1体が動いた。鉤爪がアスファルトを削る。正面から突っこんで来る。
 直後、ぬるい風が流れた。上から殺意の塊が落ちてくる。我知らず、口端が歪んだ。前方の1体を意識に留めたまま、斜め前に踏みこむ。一気に近づく壁を足場に、身体を押し上げる。視界に迫る反対側の壁を足場に、再度跳躍。体勢を変えると同時に、抜刀。視線のわずか下、つい先ほど建物の屋上にいたはずの人狼がいやがった。
 路地の幅は、俺が刀を振るうには少々狭い。だが、横ではなく縦なら、十分な空間がある。跳躍の勢いと体重を加え、人狼の首根を斬りつける。目算が狂ったか。俺の刃は人狼の首と背骨を切り開くに留まった。裂けた肉の間から、血が溢れる。首は3分の1程度しか離れていない。おそらく、致命傷。
 空中で刀の血を振るい、壁伝いに移動。数m下、地面からこちらを見上げている残り1体の人狼に狙いを定める。
 せめてもの反撃か。振りかぶられた鉤爪を落とし、返す刀で脇腹から逆袈裟に切り上げる。先の1体とは異なる感触。切り口から腸が零れる。それでも人狼の生命力は強かった。咆哮。残された鉤爪が、振り下ろされる。決死の攻撃。後方へ飛びのいて距離を取り、柄を握りなおす。人狼が突っこんで来る。その勢いも利用させてもらおう。
 大きく上段に構える。間合いまで、3秒、2秒、――入った!
 刀を振り下ろす。真っ直ぐに人狼の頭蓋が割れ、刀身が鼻のあたりまで喰いこむ。その刀身を手前に引き抜くと同時に、人狼は自らの血溜まりに沈んだ。

 報告は4体。初めの1体と逃げた1体は、アサシンが仕留めただろう。そして、俺が2体を斬った。一応、極力魔法を使わないように、との要望には沿ったつもりだが……。
 周囲を漂う鉄錆の臭い。

「さすがに、汚し過ぎたか……?」

 コレの後始末の方が、面倒なのではなかろうか。自嘲とともに緩みかけた意識を、敵意が掠めた。
 上だ。片方の人狼がいた建物。死角にいる。5体目? 違う。この気配――魔法使いだ。

「アサシン!」

 声と同時に、上空を影が走った。朱の残像。一瞬の後、耳障りな悲鳴と一際強い血臭が落ちてきた。仕留めたか。
 改めて周囲を探る。6体目の気配はない。アレが最後だったはず。

 壁の凹凸や窓枠を足場にして、屋上へと上る。アサシンは、すでに刀を収めていた。インバネスコートを濃紺の外套に変え、黒の手甲と笠を纏った姿は、かつて幕末を震撼させた人斬りそのものだ。
 その足元に、魔法使いの死体が転がっている。おそらく、コイツが人狼達の指揮官。傍に投げ出された杖から見るに、応戦は試みたが、アサシン相手では手も足も出なかった、ってところか。
 
「おんし、怪我は?」
「ない。アサシンのおかげだ」
「……ほうか」

 俺1人では、無傷でなんて勝てなかった。裏などない。事実のまま、言葉のままの意見だった。
 炯々たる朱は笠の奥に、引き結ばれた口許は布の向こうに。アサシンの表情は、見えなかった。


***


 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
 鉄錆の臭い。湿った風。汚物と土の臭い。罵倒。軋むのは“道具”か、自分の骨か。問い質す声。嘲笑。激痛。
 縛られた両手も、潰される足も、打ち据えられた肩も、吠える喉も、何もかもが痛い。
 時折、“道具”が緩む。水。獄吏が問う。
 話せ。本間を殺した者は誰だ。何人が関わった。どうやって殺した。誰が計画した。
 答えれば終わるのか。助かるのか。終わらない。すでに大阪のことは話した。それでも続いている。
 喉が軋む。水。獄吏の怒声。“道具”が動きだす。
 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
 先生、武市先生、助けてください。嫌だ。痛いのは嫌だ。足が潰れる。骨が砕ける。嫌だ。痛い。嫌だ。痛い。嫌だ。痛い痛い痛い痛い。
 終わらない。牢の者は、耐えろという。痛い。耐えれば終わるか。終わらない。痛い。続く。森田の骨は砕けた。痛い。わしの骨も砕けるか。
 嫌じゃ。痛いのは嫌じゃ。許してくれ。助けてくれ。嫌じゃ。痛い。痛い。痛い。
 助けて。誰か、誰か、誰か! 
 助けてくれ、――― 龍馬。


***


 跳ね起きる。コメカミから汗が伝う。喉が引きつる。掠れた呼吸音に、“道具”の軋む音が重なって聞こえた。
慌てて周囲を見回す。杖。読みかけの本。サイドテーブル。クローゼット。カーテン。住み慣れたホグワーツの自室だ。手に馴染んだシーツの感触が、俺に現実を伝えてくれる。よかった。アレは夢だ。――同時に、吐き気がこみ上げた。
 トイレに駆けこみ、便座の中に胃の中身を吐き出した。何度も、何度も。中途半端に消化された夕食が全て出た後は、胃液だけがせり上がった。鼻につく吐瀉物の臭い。ペーパーで手と口周りを乱雑に拭い、水とともに押し流す。
 そのままトイレの床に座り、荒い呼吸を繰り返す。立って寝室に戻る余力はなかった。あの暗い部屋に戻ったら、“道具”の音が聞こえてきそうな気がした。

「何だ、アレ……」

 大きな木製の器具だった。おそらく、拷問具の一種。正座状態の足を、木材の角で挟んで押し潰す、という形式だろう。
自分の足を撫でる。嫌にリアルな夢だった。これまでの半生で誰かに殴られたり、骨を折られたり、ナイフで刺されたことはあるが、あのような拷問など受けたことはないし、器具の存在すら知らなかった。アレは、本当に“俺”の夢なのか?
 トイレの外に気配が現れた。開いたままの扉の向こう。暗がりの中に、アサシンがいた。

「こんな時間に、何しゆうがか」

 顰められた橙に、不審とわずかな心配が透けて見える。サーヴァントは睡眠を必要としない。アサシンは、ずっと起きていたのだろう。もしくは、起きた俺の動きを察知して目覚めたか。
 夢見が悪かっただけだ。そう返そうとして、アサシン――岡田以蔵の最期を思い出した。 
 ああ、そうだ。コイツは、アサシンというサーヴァント(英霊)は、元々は人間だ。英霊は、信仰によって精霊の領域にまで押し上げられた人間。岡田以蔵という人間として生まれ、生きて、死んだ結果だ。
 蘇りそうになる吐き気を、押しとどめる。今更だ。今更気づいたところで、何も変わらない。俺は、彼に何もしてやれない。

「お前、本当にクジ運悪いな。博打が弱いのも、よく判る」
「ぞうくそが悪い。喧嘩なら買うぜよ」
「事実だろう。幸運値Eめ」
「よう判った。今から稽古じゃ。ぶっ倒れるまでしごいちゃるき、覚悟せぇ」
「断る。もう少し寝かせろ」

 立ち上がり、洗面台に向かう。今からなら、まだ2時間程度は眠れる。盛大に吐いたのだ。口をすすいで、顔も洗おう。それから、もう一度寝よう。
 鏡越しに、アサシンの眼光が刺さる。吊り上がった橙が、判りやすく彼の不満を伝えてくる。
 俺の下に召喚されたことが、お前の最大の不運だ。


***


 イースター休暇目前、予定外の事態が起こった。アルバス=ダンブルドアが、ホグワーツを離れた。
 ハリーが主体となっていたDADAの自主学習グループ、もとい対アンブリッジのレジスタンスもどきが、当のアンブリッジに摘発されたのである。このグループの存在を一部教員は把握しており、アンブリッジに露見しないよう立ち回っていたが、グループ内の密告者までは対応が及ばなかった。
 一悶着の末、ダンブルドアはホグワーツを離脱。空いた校長の席には、アンブリッジが座る予定だ。……引っ掻き回してもらうとは言ったが、この展開は最悪に近いパターンだぞ。
 いっそ、あのデカブツ諸共アサシンに斬らせるか。彼が本気を出せば、巨人くらい瞬殺できるだろ。


***


 胸糞悪いことも、腹立たしいこともあった。多少なりとも面白かったのも、数個。
 護衛の仕事はないのかとアサシンに数度問われていたから、一度魔法省に同行させたら、随分と消耗していた。サーヴァント自体が珍しいのに、それが和装の剣士では猶更だ。動物園のパンダよろしく、方々から視線を向けられ続けた彼は、ホグワーツへの帰校後「勝先生ん時よりだれたわ」とだけ述べて霊体化してしまった。
 他にも、俺が隠していた虎の子の1本をアサシンに飲み干されたり、アサシンがうっかりスネイプの置き酒に手をつけて何故か俺が小言を喰らったり、いつのまにか厨房担当の屋敷しもべ妖精達にアサシンが餌付けされていたことが発覚したり。振り返ってみると、なかなかどうして騒々しい数ヶ月だった。
 それも、今日で一区切りとなる。

 荷物を詰めたボストンバッグを閉める。宗主戦最終戦は、明後日に迫っていた。明日の早朝に帰国、十和道場で最終調整を行い、京都の本家に移動する予定だ。
 今日は早めに休もうか。そんなことを考えている時、アサシンに声をかけられた。

「明日は稽古せんのじゃろ? 最後に調整しちょかんか」

 妙だと思った。本家への同行はアサシンにも指示してある。『必要の部屋』での朝稽古こそしないが、十和道場での最終調整には付き合わせるつもりだった。
 それでも誘いに応じたのは、俺自身が高揚していたから。少し身体を動かしてからの方が、寝やすいと判断した。
 見慣れた8階の廊下を、アサシンの先導で歩く。そういえば、彼に先導されるのは珍しい。だいたい俺が前に立って、彼は後ろに控えていた。見慣れない背中に、気がかりだったことを問いかける。あの夜に見た夢の最後。夢の中の岡田以蔵が紡いだ名前、龍馬。おそらく、坂本龍馬。何故、彼は師であった武市ではなく、坂本龍馬の名を紡いだのだろうか。
 坂本龍馬とのつながりを問う。

「龍馬ぁ? 何ちゃ、急に。……あの阿呆はの、夢ばっかり追うてわしを置いていったんじゃ。幼馴染ばあゆうても、縁はそう続かんかったき」

 幼馴染。俺の知る岡田以蔵と坂本龍馬は、同じ土佐藩出身という程度の関係だったはずだ。友人ではあったろう。だが、幼馴染などという深さではなかったはず。
 取り出した知識とアサシンの齟齬に背筋が冷える。彼は、岡田以蔵だ。だが、本当に“俺が知っている”史実の岡田以蔵か?
 

***


 そこから先を、はっきりとは覚えていない。記憶に残っているのは、アサシンの胴を切り裂いた刀の感触。血に塗れた愛刀の輝き。
 そうして、消えていくアサシンが告げた言葉。

「置いてかれるんは、もうごめんじゃ。すまんなぁ。……わしは、ここでいなせてくれ」

 喉が引き攣って声が出なかった。

「勝っとおせ、マスター」

 彼に、マスターと呼ばれたのは、あれが最初で最後だった。


***


 召喚陣の光が消える。眼の前に広がるのは、どこかの研究室か。もしくは、観測室。
 10代と見える少年が立っていた。彼と自分の間に、強固な縁が繋がっていると判る。ああ、彼がマスターか。

「はじめまして、マスター。召喚に応じ現界した。バーサーカー、真名を――」

 名乗りの口上が止まる。少年の後方に、記憶の中で掠れかけたインバネスコートが見えた。
 ああ、彼もここにいたのか。



 一度目の世界では、交じり合う縁さえなかった。
 二度目の世界では、互いの瑕を抉り合うしかなかった。
 そうして迎えた、この三度目の世界でなら、―――同じ方向を見て戦えるだろうか。



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