部誌13 | ナノ


世界が三度回ったら



ガラスの向こうには、寒々しいほどの青空が見えた。HLではあまりお目にかかれない青空に、クラウスは目を眇める。
空の青と透明度の高いガラスの冷たさとは正反対に、温室の中は非常に暖かかった。湿度が高くて、有機物の繁殖する質の良い肥料の匂いと、緑の匂いが立ち込めている。
 手入れの行き届いた園芸用品が小脇にまとめられていて、その周りに黒々とした土が落ちているほか、石畳には汚れがない。それは、土に塗れる園芸としては異質なほどだった。
 鉢や花壇に植えられた植物はどれも色艶がよく生き生きとしている。花をつけることが難しいと言われている植物が、美しい大輪の花をいくつもつけている。そこにアンバランスさはない。ごくごく自然に、こう咲くのが当然だというようにいきいきと咲き誇る花と、豊かなグリーンのコントラストは、ため息が出るほどに美しかった。
クラウスは園芸を趣味にしている。HLでも温室を持ち、ラインヘルツ家に居たときは、庭を手入れして「ラインヘルツ家に庭師いらず」などと言われたりした。それでもクラウスは「グリーンフィンガー」などという称号が似合うのは自分ではないと、思っていた。
 彼の作る温室は、ただ、植物がいきいきと育っているだけではない。森のように深く、植物と植物が調和して、とてもあたたかく優しい空間を作る。
 まるで、彼の人柄のようだと、クラウスは思っていた。
 この温室はクラウスの記憶にあるなまえの温室そのものだった。とても美しくて、やさしくて、あたたかい。
「きれいに咲いたろう?」
 そう言って、なまえが微笑んだ。
 やわらかい中性的な笑みを浮かべながらなまえは見頃の植物たちがいちばんよく見える席に腰掛けるように勧めた。明るい太陽の光が似合わない真白い肌はクラウスの記憶にあるままだった。
 真珠色の髪の毛がサラリと肩から落ちた。さっきまで束ねられていた髪の毛はすらりと真っすぐ伸びて、結ばれていた痕跡をひとつも残していない。かわりに、その豊かな輝きを放つ白銀に、温室の緑が映り込んでいた。
 真珠色の美しい長髪に映り込むグリーンが、クラウスは好きだった。
 
 でも、この温室の緑を、クラウスは好きになれなかった。

 確かに、この温室はなまえが作った温室そのものだ。牙刈りという不安定な仕事をしていたなまえにとって、このような立派で手のかかる温室を持つことは高嶺の花だとラインヘルツ家の庭に触れながらなまえが言っていたことを、クラウスはよく覚えていた。
 なまえの夢が詰まったこの温室を、クラウスは否定する。
「……なまえ、」
「水をやる頻度を少し変えてみたんだ。前に言っていただろう? この植物が採取された場所の気候に近づけてみると良いという話。アレを思い出したんだ。この花は、もとの品種は、」
「なまえ、」
 いつもならば、夢中になって聞いただろう話を遮って、クラウスは少し大きな声を上げた。
 驚いたようになまえがきれいな青色の瞳を瞬かせて、それから諦めたようにため息をひとつ、吐いた。
「まだ諦めてなかったの」
「……諦められる、はずがない」
「……そうだ、君はそういう人だよね」
 困ったように首をかしげて、なまえはテーブルに肘をついた。白い指が顎の先で組み合わされる。土を触るときは手袋をしているから、爪の先まできれいに整っている。
 なまえは植物の手入れは丹念にするが、自分の手入れをマメにするタイプではない。これは生まれ持ってのなまえの美しさだった。素手で土を触っていたなまえに、その美しさが損なわれることを恐れて手袋をプレゼントしたのはクラウスだった。
「なまえ、帰ってきてほしい。ライブラはいつでも君を待っている」
「……おれは今、しあわせなんだよね」
 やわらかく微笑みながら、なまえは笑顔でクラウスの申し出を跳ね除けた。
 いつもはのらりくらり、と話題を振り回すなまえにはめずらしい、はっきりとした拒絶だった。彼は、道中でみてほしいと言っていた胡蝶蘭に手を伸ばした。白い指が、つややかな緑にするりと触れた。今にも綻びそうな蕾がふらりと揺れる。
「……それは、作り物だろう」
「クラウス」
笑顔のまま、厳しい声でなまえは言う。
「いいや、生きているよ」
 力強く、なまえが言う。
「……なまえ、これは」
「いいや、わかっているよ。わかっているんだ、クラウス」
 クラウスは、とても頑固だ。決めたことを曲げることをしない。それが、自分が正しいと思うことなら絶対に曲げてはいけないものなのだとクラウスは知っている。
 その頑固さを上回るほどに、なまえの決意がかたいことをクラウスは悟った。
「牙刈りの仕事も、HLにうつってからのライブラの仕事も、きらいじゃなかったよ」
「……では、」
「でもね、クラウス。おれは、欲しいものがあった。……先に言っておくよ。この温室じゃない。たしかにおれは、こんな温室に憧れていたけれど、……こんなもののために、使命を捨てたりしない。そこまでの腰抜けじゃないさ」
 ガラスが、キラキラと光る。大抵、温室の中は植物が呼吸をするせいで湿度が高くて、ガラスは曇ってしまう。でも、この温室のガラスには曇りひとつなかった。
 なまえは中性的な容姿ゆえに、軟弱者と謗られることが多かった。それを聞くたびに腹を立てるクラウスに、なまえは言わせておけばいいと、肩をすくめて笑っていた。
「……それは、手に、入ったのだろうか?」
穏やかな微笑みが、クラウスの網膜に焼き付いて、体の内側から捩れるようにあざやかな温室が揺らいでいった。

『訊きたいことは、きけたのかな?』

チカチカする眼底の痛みを堪えながら、クラウスはまばたきを幾度かして、目を開いた。曇った防弾ガラスの向こうにはHLの霧に覆われたいつもの空があって、照度を間に合わせるためのランプが灯っている。
 きれいに掃き清められた石畳に膝をついたまま、クラウスは顔を上げた。
 なまえの顔をした異形が、クラウスに向かって微笑んでいた。
 それがたのしそうに首をかしげれば、葉緑素に染まった髪の毛がさわり、さわりと揺れる肋骨が皮膚の下にしまわれているべき場所から樹皮に酷似したものが飛び出して、胸の中央を木のうろのように開いている。白い指の先は新芽のように赤く、しなやかな脚は土から養分を吸い上げるための根が土へと降りていた。
「……聞いていたのだろう」
 不機嫌なクラウスの声に『それ』は『そんなに悪趣味じゃあないよ』と陽気に笑う。
『ぼくはプライバシーは尊重するんだよ。ちゃあんと「閉じて」あったさ』
「今、なまえは」
『眠ってるよ。……これはぼくも想定外。このあと一緒に本を読もうと思っていたのに』
 そういいながら『それ』はギルベルトが差し入れた一冊の本を弄んだ。
 1年ほど前。HLにやってきてから1年くらいのことだ。なまえは、この異形に取り憑かれた。なまえは「拾ったのだ」と弁解していたが、この状況は「取り憑かれた」というべきほかはない。
 『それ』は弱った植物で、生体に寄生しなければ足が生えて歩くこともできないひ弱な生き物だった。なまえと『それ』は一つの体を共有している。本来ならば無理のある状態をなまえが「内側」に閉じこもること、根を生やして、温室でクラウスが手入れをすることで共生している状態にある。
 『なまえがイヤなら、すぐにでもぼくは死ぬよ。なまえが望んでるんだ』と『それ』はいう。専門家の見立ても、同じだった。クラウスには、それがどうしても納得できなかった。
『ねえ、クラウス・V・ラインヘルツ。きみには本当にわからない?』
 なまえの顔で邪気のない笑みを浮かべながら『それ』が問う。なにを問われているか、クラウスには分からなかった。
「おっしゃっている意味がわかりません」
『……ん、あの子が、この温室で、このプランターに埋まって、あのキレイな温室でたいくつーな日々をおくってる理由。ほんとにわからない?』
 なまえも、子供の頃はこんな表情で笑ったのだろうか。いや、なまえが作る表情は、もっと、もっとあたたかみがあるだろう。コレは、違うものだ。湧き上がる嫌悪感を堪えながらクラウスはわからない、と首を左右に振った。
『……あの子も報われないなあ……「ライブラいつでも君を待っている」だっけ?』
「……っ!?」
 クラウスの怒気を体をしなやかに揺らして、緑の髪を弄びながら『それ』は『ごめんごめん、聞こえちゃったんだよ』と軽く笑った。
『でもさ、きみのせいだよ。あんまりにも、あの子が苦しむから。聞こえちゃった』
 なにが、苦しいと言うのだろうか。彼になにが起こっているのだろうか。怒るべきなのか、心配するべきなのか惑うクラウスを笑っていない目で『ぼくも、あの子の不幸は望んでないんだけどな』と睨めつけて『それ』は『本当に、お馬鹿さんだなあ』と口元だけで笑った。
 その口元が、網膜に焼き付いたなまえの微笑みに、ひどく似ていた。
 込み上がった怒気が行き場を失って、潰えた。彼の、あたたかい微笑みを思い出した。いつからだろうか。彼の微笑みは、本当に、あたたかかっただろうか。
『なまえが言ってたの、本当だね。……世界が三度くらい回らないと、きみはわからないかもしれない』
 紐育崩落が世界が回ったみたいだったってなまえは言ってたから、あと二回かな、と茶化す声を聞きながら、クラウスはなまえの作り上げた温室に、思いを馳せた。




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