部誌13 | ナノ


午前4時の空



思い出は遥か遥か、遠く。
己が何者なのかさえ忘れてしまった。
それでもなお、太陽が顔を出し、世界を照らしだすその光景を美しいと思える、この心さえあれば、大丈夫な気がしていた。

例えそれが、瞼の裏に映る幻想であっても。




薄暗い部屋には、誰もこないはずだった。
誇り臭いそこは、忘れ去られた部屋だ。いつか使えるかもしれない廃棄寸前のものが捨て置かれている。人理修復したばかりのカルデアで、そんな部屋の存在を思い出す職員などおらず、マスターや召喚されたサーヴァントたちもまた立ち寄ることもない部屋の、はずだった。
倉庫エリアをふらふらと歩く一つの影があった。ぶつぶつと口から怨嗟を垂れ流すその影が、忘れ去られた部屋に入ったのは、本当にただの偶然だった。

「―――誰や?」

恨みに歪む伏せた顔が、瞳が、前を向く。そこに在ったのは、ゆらめく人の形をした、残像のような【何か】だ。

「おまんこそ、誰や」

「……誰やろな」

「てんご言うなや」

「訳わからんこと言うなや」

「ゆうたのはおんしけんど」

「それな」

男は岡田以蔵といい、カルデアのマスターに召喚されたサーヴァントの一人だ。彼は覿面に酔っていて、正しい判断ができない状態だった。何より彼は、1945年の帝都での尋常ならざる戦いと、己の生前ではありえなかった力を知る英霊である。悪霊の類が存在することを知っていたし、そういったものを倒す力を得ていると知っていた。だからこそ、酔いから醒めずによくわからない【何か】と会話を交わす余裕があった。【何か】に敵意や害意があれば、たちまち彼は腰に刷いた刀を抜く。それをいとも容易くこなせる剣豪だ。

「せやかて、うちかて自分が何なんか判れへんねんから、しゃーなくない?」

【何か】はそうして、肩を竦めたらしかった。ぼんやりとした白い影のようなそれは、人の形をしていて、恐らくは人の顔もそなえていた。断言できないのは、目鼻立ちがあると解るのに、目を凝らしてもそれの顔立ちが読み取れないからだ。幽霊や悪霊のほうがよっぽど判別できる。性別すら判断しづらい。言葉遣いだけでいえば女性のようにも感じられるが、胡坐を組んでだらしなく座っている姿は、以蔵の知る女性の姿とは違っていた。淑やかさの欠片もないので、以蔵にはそれが女性であると確信できなかった。

「仕方のうはない」

「ケチやなあ」

クスクスと楽しげに笑うのに、どんな顔をしているのかわからない。そんな状態が不快で、以蔵はそれの顔を掴もうと腕を伸ばす。しかし伸ばした腕は、虚しくも空を切るだけで終わった。

「……おまん、何や?」

「何やろ、うちにも解れへんねん」

酔いは、醒めた。醒めたはずなのに、夢から醒めていないような、不思議な感覚だった。靄のようなそれは、だらしなく座り込んだまま、以蔵を見上げて宣った。

「とあるひとの言では、バグった概念礼装やねんて」

「ばぐ……?」

「そこは聖杯からもろた知識有効に使おうや。本来ならありえへんはずの変なやつってことや」

「自分で変言うなや」

「でもなあ、概念礼装が意志持って、喋るとか、なかなかないやん? 珍しいことやろ」

酒呑童子とは異なる音を持つ西の言葉は、どこのものだろうか。逢坂あたりかと当たりをつけても、正解を導き出せそうにない。目の前のこれは、記憶がないのだ。

「うちは、意志をもった概念礼装らしいけど、どんな効果を持つんかもわからんし、そんな状態でマスターやサーヴァントにつける訳にもいかんしな。しゃーないからここにおる」

「……こがなげにか」

「マスターは、大変な時やったからなあ……人理修復したいうても、結局変な特異点出てきてばたばたしてるやろ。うちのことで煩わせたぁないねん」

「……ほんなら」

ずっとここで、独り?
それは、あまりにも――

「寂しゅうないがか?」

多分、それは笑ったのだと、思う。以蔵の想像でしかなかったが、きっと、笑ったのだ。
胸がもやもやしてたまらなかった。きっとその笑顔がどんなものなのか、以蔵は知っている。知っていた。つい先ほど、酒を飲む前も、見てきた。ごめんね、以蔵さん。そう笑う男と、同じような顔をしているに違いないのだ。

「わかった」

「……何が」

「儂がここに来ればええんじゃ」

「なるほど、わからん」

訝しげな声など知ったことか。目の前のこれが、独りでいることが気に食わない、それだけだ。
それだけなのだ。



ひとりぼっちだった空間が、ふたりになった。
ぼんやりと過ごすだけだった日々が、一気に慌ただしいものになった気がする。誰かと――以蔵と会話することで、ああ、寂しかったんだな、なんて他人事のように思った。自分のことなのに、変な感じだ。
不機嫌そうな顔ばっかりだった以蔵というサーヴァントは、慣れてくればよく笑う。子供みたいに笑って、拗ねて、怒って。そんな様子が、とても眩しい。おかしいな、同じように、一度死んだ身であるにも関わらず、どうしてこんなにも違うのだろうか。

「――ああ、うち、死んだん、か?」

過去はおぼろげで、かすかな記憶しか残っていない。思い出すのは朝焼けの美しい空だけ、それだけ。自分が何者なのかさえ、解らなくて。

「サーヴァントの近くにいることで、力をつけてきたのかな」

気が付くと、目の前には美しい賢人がいた。レオナルド・ダ・ヴィンチ。カルデアの技術局特別名誉顧問。麗しのキャスター。

「英霊は、ただそこにあるだけで、君のような異端にも力を与えるのかな。それとも、名を与えられた?」

「なま、え」

「君はなんという名を貰ったのかな。彼がかつて通っていた遊郭の女郎の名前かな? ま、なんでもいいんだけど」

いい名前だといいね。微笑む彼、あるいは彼女が、額に触れて、それで――記憶、が、混濁、する。

「君が、我々の力になってくれれば嬉しいんだけど」

頼むから、ファム・ファタルにだけは、なってくれるなよ。
そう呟かれた言葉は耳に届かず――わたしは、また夢を見る。

美しい朝焼けの空を。



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