部誌13 | ナノ


雨の日の花嫁



荘厳であるはずの聖歌は、唸るような調子はずれの音程と、軽々しい電子音の伴奏で、いささか滑稽だった。
妙に耳に残った神を讃える合唱を思い出して、頬の筋肉が引き攣った。腹からこみ上げる笑いを抑え込んでいた後遺症で、妙に痛い顔の筋肉をほぐすように揉んでから、胸ポケットに手を伸ばす。いくつかの紙片を指先でよりわけ目当ての煙草を一箱取り出して、手を止めた。
重い雨粒が軒に石畳で砕けた小さな水滴が霧のように充満していた。今しがた出したばかりのビニール包装にもそれとわかるくらいに水滴が浮いている。
煙草が湿気てしまうのではないか、と、神に祈る領域でふかす煙草への後ろめたさを交互に手にとって、なまえはこの場所で吸う一本を選んだ。
老神父の愛する柑橘の鳴る生け垣のおかげで、他の参列者のいる場所からはここは見えない。無作法をきびしく咎めるだろう神父に近頃のこの教会がどんなものであるか、説明することが忙しい。ひとりの不良に気づく余地はないだろう。
100円ライターの乱暴な炎が、白い筒の先を赤く染めた。一度燃え始めたそれは、かすかな湿気では消えそうにない。肺を満たして、深く吐く。紫煙に霞む庭が、記憶にあるよりもずっと小さいことに、目眩がしそうだと思った。
あの頃は、知らない土地に越してきたばかりだったなまえにとって、小さく寂れた教会は、ひとつの理解できるルールで縛られた場所であって、小さな庭を眺めるベンチは、ひとりきりで居ることが許される場所だった。
小さな教会は、花嫁にとっても思い入れの深い場所だった。
年老いた神父は式の最中に「こんな素晴らしい日に立ち会えるとは」としきりに神への感謝を口にした。近頃は、こんな小さな教会で結婚式を挙げる夫婦はめったにないのだという。亀の移動を観察しているのかと思えるほどにゆっくりと、老神父は動いて、レンタルの礼服に着られた二次会の幹事はしきりに時計を気にしていた。忙しない物音は、龍が這うような雨水の音と唸り声のような雷鳴でかき消されてしまったのは幸運と言えたかもしれない。
新郎側の両親がとげのある声で「披露宴の会場には連絡をいれたの」と何度目かの質問をした。「そうだね、連絡をいれておこうか」と鷹揚に答えるのが新郎だ。
妹の結婚相手だというのに、なまえはこの日はじめて新郎に会った。なにかと抜け目のない妹のことだから、心配はしていなかったけれど、思っていた以上に妹がしっかりした女であることを再確認することになった。
仕事柄、なまえは、なにを利として、なにを目的に、どういう意図で、なにについて論じているのか、言の葉ひとつの重みに命をかけるやり取りを扱う。だから、ひとつふたつ言葉をかわしてすぐ、彼がなまえやなまえと非常に性質の似た妹と異なる、実直でひたむきな好青年であることを認めた。
『あら、もっと興味をもってくれていいんじゃない? 片割れの伴侶よ』
話を膨らませようともせずに「愚妹をよろしく」と挨拶を済ませたなまえに、双子の妹はなまえと同じ色の髪の毛を飾る髪飾りを揺らした。なまえたちの母が結婚式でつけたという髪飾りは、彼女にとても似合っていた。
『おまえは、人を見る目はしっかりしているから。信頼してるよ』
『兄さんに比べればね。よくそれで立派なお仕事がつとまること』
『毎日老獪な猿どもに転がされっぱなしだ。そこをなんとかして来てやったんだ。労ってくれ』
『そんなこと言って、そういうのは得意でしょう。わたしが心配しているのは恋人のことよ。向こうで出来たの? 兄さんは、恋が絡むと途端にダメになるから』
『……あいにくと、出来ていないよ。仕事が忙しくてね』
『なら安心ね』
『そこは、はやくお前も身を落ち着けろと心配するところじゃないのか』
『わかってることを、言わせないで』
返す言葉を失ったなまえに、妹が勝ち誇る。そんな花嫁の姿に、白いタキシードを着た新郎が「仲の良い兄弟で羨ましい」と笑った。
もしもし、という新郎の声がする。この場合、連絡をとるのが新郎で良いのか、どういう事情で誰が主催しているかに、新婦の親族の先頭に座るなまえは関知していない。
気のいい新郎は気にしていないようだが、新郎側の親族は、さびれた教会での段取りの悪い挙式やひどい雨に、寂しい親族席を気にしているようだった。

「こういう場所は禁煙だと思っていたよ」
ひっそりとかけられた声に、なまえは視線だけで相手を確かめた。
黒い革靴。ビジネススーツに、褐色の肌。金色の髪の毛。服装も、身にまとう雰囲気も、すべてこの場所にひどく不釣り合いで、ひどくよく似合う、不思議な存在感に目を奪われそうになって、表情を変えないように注意深く、雨だれに視界を戻した。足音の音がわからなかったのは、雨の音のせいだろう。ここまで接近されて、気がつけなかったのは、気が抜けていたからにほかならない。
なまえは、ここは、特別な場所だから、と割り切れるほどに気楽ではなかった。
「……裏から入ったのか」
「ええ、少し狭いですが、車を停める場所がありましたから」
薄ら寒い敬語に少しばかり顔をしかめて、そんな場所があったか、と思いを巡らせる。なまえが知っているこのあたりは、数年前のもので、最近のことは知らない。その数年はどれか、なまえが知っている家が取り壊されて駐車場になっていてもおかしくない時間だった。
しかし、狭い場所を通ったからか、彼のジャケットはところどころ濡れていた。
「用なんだろ、言えよ」
単刀直入に切り込む。なまえの帰国をこの男がたやすく察知できる理由を、なまえは知っている。あの優秀な男が、昇進の話題に乗らない理由など、それほど多くはない。
「……お祝いを言いに来たと、思いませんか」
「そんな物騒なモノをつけて、か?」
「忙しくてね」
「妹は、招待状を送りたくても住所がわからない、って言ってたな。よくここがわかったな」
「風のうわさでききまして」
「口が減らないな」
「……少しくらい、友人の花嫁姿を眺める時間はくれないか」
「友人、ね」
妹はひどく敏い。獣のような第六感でなまえの隠し事を暴くことが特技だと言っていい。それを知っているか知らないか、なまえには分からなかったが、こちらから見えるということは向こうからも見えるのだということをなまえは指摘する気になれなかった。
「……煙草、まだその銘柄なんですか? 向こうの銘柄は口に合いませんでしたか」
「さっき、なつかしくなって買ったんだよ。向こうでは吸ってねェよ。何が入ってるか分からねェからな」
「賢明ですね」
首を竦めて、肯定も否定も返さない。
「その匂いを、嗅ぐと思い出すな、」
気味の悪い敬語をやめて、男はポツリと呟いた。旧交を温めて、馴染みから情報をとるのはありふれた方法だった。なにか、あるのだろうと思いながらもなまえはふたりの間にある記憶の話が彼の口からのぼることへの期待を、おさえきれなかった。
「……一本、吸っていくか」
金色の髪が、しっとりと濡れている。湿度計に使うのは、金髪の女性の髪ではければならないらしい。男性では、だめなのだろうか。なめらかな髪の毛を眺めながら差し出した箱を、男は首を横にふった。
「……一口、もらおう」
彼はそう言って、手を差し出す。褐色の指に促されるままに、いつか、いつだったかそうしたときと同じように吸いかけの煙草をのせた。
当たり前のように煙草を受け取った男に口の中の苦味が増した。ポケットから携帯灰皿を取り出して、開く。
「……雨」
すう、とかすかな吐息の音すら待てなくて、なまえは切り出した。
「妹が、ライスシャワーが出来ないって文句言ってたよ。お前が連れてきたんじゃないのか、雨男」
茶化すような言葉にかぶせるように、紫煙が風に乗る。男は、差し出した携帯灰皿ではなく、なまえの口元に直接、煙草をかえした。なまえの口を塞ぐように。
「……僕が帰れば、雨がやむと?」
他人の唾液を吸ったフィルターを唇から話しながら、なまえは所在をなくした。煙草を吸い続けるべきか、携帯灰皿に煙草をいれるべきか、判断がつかなくなっていた。
どうすべきか、なにをすべきか、わからなくなる原因なんて、ひとつしかないことを、なまえは知っている。
妹に指摘されるまでもなく知っている。
携帯灰皿を閉じたのは、褐色の指だった。その指の間に挟まった紙片が、さり気なく入れられるのを眺めながら、舌打ちをひとつ。
「……妹に、なにか言うことは」
「ないな」
あざ笑うような調子で、彼は言った。「なにを言っても、怒られそうだ」そう、付け加える言葉が嗤うのは、彼自信だった。
遠ざかる黒い背中をみながら、なまえはまだ長い煙草をてのひらで潰した。じゅう、水分の蒸発する音といっしょに鋭い痛みが手のひらに走る。火がよく消えたことを確認してから、なまえは吸い殻をそのままポケットに入れた。

足を踏みはじめた途端、勘の鋭い瞳を向けた妹が、口を開く。その言葉に返す言葉はには迷わないことを、なまえは知っていた。

それからしばらくして、雨がやんだ。雲間にきらめく太陽と、石畳の水たまりをウェディングドレスの花嫁が、裾をたくし上げて不器用に歩く。
新郎が、水たまりにうつる青空をさして、きれいだと笑う。
ひらひらとライスシャワーと花びらが舞う。

自分には訪れない光景に、なまえは手のひらの痛みをごまかしながら笑った。




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