部誌13 | ナノ


言葉はいらない、言葉が欲しい



「まさに世界の果てですね」
 隣に立つ男の声は、眼前に広々と横たわる海の白いさざ波よりも穏やかで、凪いでいた。
「私たち以外誰もいないという意味ではそうかも」
 いや、それを言うならば同じくもはや果てとなってしまったセカイも、あるのだけど。男のモノローグをさえ覗けない半人前のカミサマには、蹂躙の記憶をわざわざ蒸し返すことは少し恐ろしかったのでそっと胸の内でだけ呟いて、半歩砂の上へと素足を踏み出した。
 そうして少しだけ斜め後ろになった彼を振り返る。群青を塗り込めた青空のキャンバスに、浅黒い肌を隠す麻の白いシャツは目を細めるような眩しさで私の目を焼いた。
 不純物のない琥珀のように透き通った瞳から映る私は、果たしてどのように感じられているだろう。
 天草四郎時貞。人類全ての救済という果てしない、究極の夢を夢見るひと。
 あまねくヒトを、その苦しみを見続け、どんな手を使ってでもそれをぬぐい去ると決めたひとの眼に、私一人が映っている。私がそうさせたから。
「四郎が目指した果ては、こういう風景?」
 潮風が私の髪をなぶる。天草の顔が見えない、と自分でそうする早く、私より一回り大きな手が頬を撫でるようにして髪をかき上げた。
 掌といわず指先に至るまで、天草四郎はあたたかい。代謝がいいからか、若いからか、男の子だからか、子供体温だからか、正体は定かではないけど。上着ひとつ羽織らないキャミソールタイプのワンピースと素足という格好のせいで日差しをものともせず冷えきった手を頬に当てられた天草の手に重ねると、より温度の違いは明らかになるようだった。
 天草が親指の腹でゆっくりと目元を撫でる。
「確かに、私の目指すものに似ているかもしれない。誰もの心にこのような美しい凪を、私は」
 美しいだろうか。言葉を切って目を伏せる天草を見ながら、薄情な脳が独白する。
 濁りのない青い空。どこまでも白いさざ波が揺れる、嵐を知らない凪いだ海。汚れのない月の光を撒いたような砂浜。
 ここに争いはなく、ここに憎しみはない。
 ここに諍いはなく、ここに悲しみはない。
 ここに喧噪はなく、ここに賑わいはない。
 ただ、私が天草を愛しているだけ。愛したいだけ。
 青い空と海と、寝泊まりをするためのたったひとつの小屋。
 そういうものを作った。箱庭、鳥籠、檻、牢獄、……泡沫の夢と、そう呼ばれるようなものを、ほんの僅かな時間、私は作った。

 地表は漂白された。西暦2017年末、カルデアは崩壊し、しかしてカルデアの善き人々は濁流に流される木の葉のように頼りなくも類希なる可能性を求め、虚数空間という海原へ潜航していった。
 両手の指に僅かに余るだけの彼らこそ破滅から逃れられたものの、彼らを俯瞰する私にはそれきり、地表は、地球は、人類は、問うべくもない死の吐息に覆い隠されてしまった。
 それでも、あるいはだからこそなのか、セカイは私に夢を見せる。消えたはずのカルデアで、去ってしまったはずの彼らが、サーヴァントたちがいて、死に絶えたはずの人々が笑っている夢を見せる。夢を見ていることにさえ気づいていないのかもしれないとも思う。
 私が見つめるカルデアの、人類最後のマスターは、ごくふつうの少女だった。この他愛ない日常はあるいは、彼女が虚数潜航のさなか、微睡みのうちに見ている儚い夢なのかもしれない。
 それならと、思った。
 同じ夢ならば、そしてあなたが、それをゆるすのならば。

「後悔してる?」
 手の甲に重ねた手を、青年の掌にするりと絡めて、手を繋ぐ形にすることは、咎められなかった。
「いいえ」
 ゆるりと首を振る天草に、本当に、と重ねて問うこともない。
 ここでは誰も責めない。私がそうしてほしいと願ってしまった。
 手をゆるく繋いだまま、どちらともなく初夏めいた爽やかな日差しの浜辺を歩き出す。
 指先を、天草が絡めてきたので私からも絡める。触れているところはやはり私自身の体温よりずっとあたたかい。
 鮮やかな色彩に瞼を閉じるその一瞬に、脳裏をよぎる光景がある。

 零下何度の極寒の地にあるくせに、防寒に自信があるのかカルデアの窓は窓枠が視界に入らないほど大きい。
 雪雲が薄く垂れ込めて、まるで薄灰色の帳の前に立っているようだった。
 潔癖なまでに白いカルデアの廊下と薄い灰色の帳のただなかに、天草のカソックの黒と、ストラの赤が焼け付いた痕のように色濃い。
「天草、みんなのとこに行かないの」
 冷気を遮断する分厚いガラスに指を這わせて空のずっと先まで一面に続く薄曇りを眺めていた天草の背にそう声を掛けると、彼はぽつりと、「まるでこのカルデアだけが息づいているようだ」と言った。
 極寒の、秘められた地に建てられたこの星読みの砦は確かに世界からぽつんと浮いたようだったけれど、彼が言っているのはそんな立地だけの話ではないだろうことは、察しがついた。
 レフ・ライノールによる工作と爆破によってカルデアを構成していた殆どの命が燃え、あの日を境に主を喪った部屋が棺のように居並ぶこの居住区画はしんと静まり返っていたが、それでも耳を澄ませば誰かの笑いあうさざめきが確かにここに人の営みがあることを証明している。僅かに残った職員たちと、カルデアのマスターが紡いだ縁の糸によって呼び声をとらえ、応えて顕現したサーヴァントたち。
 なんら変わりないはずの日常は、けれど、変わりないことこそが異常で、異質だった。
 真理など受け取るべきではないと思う。気付かなければ、彼はこんな冷えきった灰色の廊下ではなく、ひとの輪の中で穏やかに束の間の時を過ごしていただろうに。
 夢と知りながらも醒めることはできず、さりとて夢と知らぬ人々のやさしさに囲まれることを彼がよしとしないというなら。いや、言い訳だ。これまでの全部、全部、私の浅ましさを覆い隠すための言い訳に過ぎない。

「マスター」
 天草が、私を呼ぶ。伸ばされた手が触れてくれる頬も、天草と繋ぐ手も、呼ぶ声に応えるための喉も、天草四郎という、遠い星のようなあなたに会いたいがために端正に作ったものだ。私はこのセカイに生きるヒトではない。あなたが救おうとしている、あなたに救える人間ではない。それでも、彼が主と呼ぶ真理の加護を受けた彼は、私をマスターと呼ぶ。
 俯瞰しているだけだった私を、呼んでくれた。
 それ以上の言葉はいらない。
 けれど、私は、私には、なにもかも足りない。

「四郎」
 好き、愛してる、大好き、ごめんね、ありがとう、あなたの願いを美しいと思う、あなたの願いを悲しいと思う、欲深いのはあなただ、それでも人を諦めないでほしい、人類に救いようなんてない、それでも夢を叶えてほしい、理想を諦めないあなたが好きで、理想のために傷つくことをいとわないあなたがこわい、
 どれを並べても、合っているようで違う。あなたに伝えられるただしくて、やさしくて、うつくしくて、あたたかな、ほんとうの言葉がほしい。
 でもそれは無いものねだりだということも分かっているので。

「四郎」
「はい」
 見つめるとき、天草は目を逸らさない。永い時の中でその姿を永遠に留めるその瞳のまっすぐさは、やはり琥珀を想起させた。
「誰も、本当に誰もいない、ふたりきりになれるところに、四郎を浚ってしまいたい」
 泡沫の夢があなたを癒さないのであれば、その夢が終わるまでで構わないから、私といてほしい。



「……もう結構歩いた気がするんだけど、どこまで浜辺なのここ……?」
「あなたが作ったのでは」
「天草とふたりっていう条件以外特に指定しなかったから……」
「……南極に放り出されなくて良かった」
「さすがに過ごしやすいところにはしようとしてた!!」
 毒にも薬にもならないやりとりをしながら歩く二人の足跡は、砂浜にずっと並んで続いている。
 これもまた夢で、幻だ。誰に言われるでもなく私も、そして天草も分かっている。新たな嵐によって物語のページがめくられるまでのほんの行間のモラトリアム。
 そんな分かりきった言葉はいらない。
 でもかなうことなら、この休息を彼がなぜ受け入れてくれたのかは、聞けたらいい。浅ましい期待だと分かっていてもきっと私は、その言葉がほしくてたまらないのだ。



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