部誌13 | ナノ


なまけ者のボクと、君



ジャキという聞き慣れた金属音が響く。電気の灯らない室内にシリンダー錠がまわる音が吸い込まれていく。
なまえは浮上する意識の中で、玄関の気配を掴む。
(いま、何時だろう?)
うっすらと瞼を開いて、時計を探す。キャビネットの上の飾り時計は、なまえが寝そべっているソファーの背もたれのちょうど死角に入っていて、見ることができなかった。
体を起こさずに、いつも近くにおいているはずのスマートフォンを探そうとして、背中がじっとりと汗ばんでいることに気がついた。
遮音性の高い窓が通す輪郭のにぶい西日がなまえの体を染めていた。
リビングに置かれた大きなソファーはなまえのお気に入りのお昼寝スポットだった。しかし陽気を強めるこの頃の気候では、河岸を変える必要がありそうだった。
水を飲まないと、脱水症状が出そうだ、と他人事のように自分の体を分析しながら、この部屋のオーナーである同居人の気配に、なまえは瞼を下ろした。
いわゆる、狸寝入り。
なまえの得意技で、両親だって見破ることは出来ない。ポイントは呼吸だ。寝ている人間の呼吸は浅い。それから、なるべく表情筋の力を抜いて無防備を装うこと。
「……なまえ?」
椅子に置かれたなまえの鞄を見たのだろう。同居人の忍田が最低限の音量で、名前を呼ぶ。なまえと忍田の関係を考えるなら、なまえは起き上がって忍田に向かって「おかえりなさい」というべきだ。なにしろ、なまえは居候なのだから。
しかも、家賃は払っていない。
食費や光熱費は一定額支払っているものの、多分、実際の額には届いていないだろう。しかも支払っているのはなまえではなくて、なまえの両親だ。
なんてことはない。親戚のよしみというやつによるものだ。
ちょっと前になまえの家は火事で焼けてしまって、大学に通う必要があったなまえを除いた両親たちは母方の実家に身を寄せた。“大侵攻”は免れたなまえの家だけれど、なんてことはない火事で家を失ってしまった。母方の祖母は「いい機会だった」といって喜んでいたけれど、困ったのは学校に通う必要があったなまえだ。
家財が燃えてしまったことでいろいろ家の財政も逼迫してしまった。なんとかして学費は捻出できたが、なまえがこっちで一人暮らしするには足りない。
なまえがバイトで稼げばいい、という案もあったし、三門市にはうってつけの稼ぎ場所もある。しかし、その案は親戚の忍田の「援助」によってナシになった。
どうして、そんなことをしてくれるのかと聞いたら、忍田は親戚の気の良いお兄さんの顔で「こまったときはお互い様だ」と言った。
――たぶん、それだけではないことを、一応、なまえは知っている。
朝ご飯の準備から風呂の準備洗濯まで全部をやってくれる忍田は、なまえの返事がないことを確かめてから、足音を殺してなまえが居るソファーへと近づく。
小さな衣擦れの音に、かすかな呼吸の音が混じって、すぐ近くに彼が居ることを伝えてくる。じっとりと濡れた背中の不快感をやり過ごしながら、なまえは寝たふりをする。
かち、かち、と時計の音がやけに大きくて、さっきまではぐっすりと寝込んでいたというのに、ひどく暑い気がして仕方ない。
血潮の赤で染まった瞼の裏側の視界が、微かに陰る。
衣擦れの音が真上まで伸びた。
――どんな顔を、しているんだろう。
一度、見てみたいと思う。だけれど、その顔を見たら多分きっと、何かが変わってしまう。予感じゃなくて、確信だ。
なまえは、この生活が気に入っている。忍田が用意してくれるご飯は美味しいし、住居は大学に近い。徒歩圏内にコンビニがあって利便性も高い。
最寄りのコンビニに行くためには車を使う必要がある母の実家より断然便利だ。
忍田がこうやって、なまえの顔を見ている時間は、そのときによってちがう。なまえは狸寝入りのプロなのでじっとしているのは苦痛ではないが、結構長く、そうしているときもある。
はじめは、なまえを起こさないよう気を遣っているのか、狸寝入りを見破られたのかとも思った。そうじゃないと気がついたのは、いつ頃だっただろう。
なまえの顔立ちは結構整っている方だ。睫毛が長いといわれたこともあるが、基本は定番の黒髪ショートヘアと野暮ったい黒縁メガネのインパクトが先行して、顔立ちを褒められることは滅多にない。でも、多分これだけじっくり見ていれば、顔立ちの良さに気がつくはずだ。
きっと、忍田はこの顔が好きなのだと思う。なまえは忍田の行動をそう、解釈していた。
すう、と濡れた気管を通る空気の音がする。
ゆっくりと離れて、なまえのキッチンに向かうのだろう、とぼんやりと思う。いつもの通りなら、忍田はカーテンを締めてくれる。そうすればなまえは昼寝の続きが出来て、夕食ができる頃に忍田が声をかけてくれる。
はずだった。
額に押し付けられたぬくもりに、なまえは咄嗟に瞼を開けそうになった。そろりと前髪が払われて、しずくがおちる。額にまで汗をかいているのだとわかった。
前髪を払った指が、なまえの眼鏡を引く。大抵の表情をごまかしてくれる黒縁眼鏡が取り払われることに動揺しながら、なまえは浅い呼吸を保った。
いつもと違う行動はそれだけで、忍田は足音を殺しながら、西日をいれる窓辺に寄って、カーテンを引く。暗くなった室内で、なまえはやっと、少しだけ気を抜いた。
忍田は、忙しい人だ。
彼が一人暮らしだったときは、夕飯を抜くことだってザラだったという。最近だって、いろいろと難しい問題と責任を抱えていて、本当はこんなことをしている暇がないことを、他人にいわれなくても知っている。
だけれど、なぜか、忍田がなまえと居る時間を大事にしていることも知っていた。
おさまらない鼓動のはやさと吹き飛んでしまった睡魔を恨めしく思いながら、シンクに落ちる水の音を聞く。
――知っていたはずだった。
なまえは、多分、忍田が自分のことを「そういう意味で」好きだということを知っていた。気がつくタイミングというのは、狸寝入りの最中だけじゃない。自分に話しかける声が少しだけ低いことだとか、両親が近くに居るときは少し距離が遠いこととか、なまえの声を拾うときのまなざしが優しいこと。材料はいくつだってあって、天然だとかいわれるなまえだって、それに気づかないほど鈍くはない。
忍田が、気がついていないかどうか、探っていたことも知っている。なまえはそれを全部かわして、今の居心地の良さを手に入れた。
非常に都合がいいので、気が付かないふりをしていただけだ。
忍田が自分を好いていることは、別に、いやじゃなかった。
どうでもいいと、思っていたのかもしれない。
なまえは大学を卒業したらこの街を出る。だから、関係がない。割のいいバイト先と呼べる忍田の仕事先は、就職に少し特殊な条件があって、なまえは自分がその特殊な条件に適合することを知っている。忍田から誘いを受けたこともある。でもそれは、両親の意向で否定された。自分の意志ではなかったけれど、危険だという両親と対立する気はなかった。
いや、本当に、どうでもいいと思っていたのだろうか。
忍田との同居は、すごく居心地がいい。
便利だし、忍田が時間を捻出してくれて、二人で話をする時間は、友人たちと居酒屋で酒を飲みながらくだらない話をする時間よりもずっとずっと楽しかった。
忍田が、なまえの好きな料理を作ってくれる日が、好きだった。
なまえの好みは偏っているから、栄養バランスのために毎日はだめだと、なまえと同居をはじめて栄養学の本を買った忍田は言った。
ぐちゃぐちゃと入り交じる感情と思考と、服を濡らす汗の不快感に、なまえはごろり、と寝返りをうった。
眼鏡がなくなったから、横向きになって眠れる。自分で眼鏡を取ればいいのだけれど、昼寝を始めるときはそれすら面倒で、なまえはたいてい仰向けで眠る。
トントンという包丁がまな板を叩く不均等な音を聞きながら、なまえはすべての思考を放棄した。
なまえは、まだしばらく、この居心地の良さを手放す気はなかった。



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