部誌13 | ナノ


年に三度



スティーブン・A・スターフェイズは呪われている。
誰もがそう思わなくても、スティーブン自身がそう思っているのだから、呪われているのだ。

「ハレルー―――ヤ!」

哄笑が闇に響く。
まるで楽団を指揮するように、大きく腕を広げて。まるでスティーブンが胸に飛び込んでくるのを待つように、それは影の濃いところから現れる。
スティーブンの呪いとはつまり、彼のことである。
彼のことを、スティーブンはろくに知らない。性別も、種族も、素性も何もかも。
なまえという名前を持つこと以外は、何も。

ニタニタと笑うなまえを一瞥に、スティーブンは溜息を吐いた。
彼を呪いと判断するのは、自分以外に彼を視認することができないためだ。ここで彼に話しかければ、スティーブンは精神に異常をきたしたと見做されるだろう。それだけは避けたい。
彼が幽霊なのか、神のような存在なのか、果たして何か別のものか。考えても答えが出ないことに飽きたスティーブンは、彼を「呪い」だとして放置することにした。

「やあスティーブン! 久しぶりだねえ! 百年ぶりぐらいかな!?」

だがまあ、放置したくてもさせてくれないのがなまえだ。
人目があるときには話しかけも近づきもしないと解っているだろうに、なまえは意気揚々と話しかけてくる。それに舌打ちしそうになりながら、スティーブンは手にもった鋸から手を離した。カラン、という金属音よりも、ばしゃりという水音が部屋中に響く。そこで己のスラックスを汚してしまったことに気づき、今度こそ舌打ちした。

「休憩にしよう。少し出てくれ」

スティーブンの私設部隊の面々は、スティーブンに忠実だ。彼らは少しばかり様子がおかしいだろうスティーブンに何を言うでなく、言われるがままにその部屋を出た。残ったのはスティーブンと、なまえと、息も絶え絶えの男がひとり。

「また地獄に一歩近づいたねえ、スティーブン。喜ばしいことだよ」

「僕は全く嬉しくない。なんでまた来たんだ?」

なまえとスティーブンの邂逅は、そう滅多にあることではなかった。けれど全くない訳ではなく、いっそ季節行事ではと疑う頻度だ。彼は地獄に近づいたと嘯くけれど、地獄なんてものがあるとスティーブンは信じていないし、その存在も確かではない。なんでもありのHLで、天使も悪魔も存在しないのだから、地獄なんて眉唾ものだと思っている。
まあ、吸血鬼なんてものが存在している時点で絶対などないと証明されているのだけれど。信じる信じないはスティーブンに委ねられていて、スティーブン自身は、信じていないのである。

けれど、地獄に近づいた、なんて言われても嬉しくない訳で。
普段汚物に向けるような視線を、なまえにも送る。彼は相変わらずいやらしい笑みを浮かべている。毎回毎回彼はスティーブンのもとを訪ねては、愉快ではない会話をして帰っていくだけ。

「君のやることはほんとうにえげつないねえ」

スティーブンの疑問を綺麗に無視したなまえは、長身を屈め、スティーブンの横にいる男に目を向けた。美しく長い黒髪がさらりと流れ、彼の頬を隠す。それをスティーブンは無感動に見つめた。
目隠しをされ、耳をそぎ落とされた男は、椅子に座って縛られた状態のため、血を垂れ流して床に水たまりを作っていた。水たまりの原因は耳から流れる血だけではなく、彼の第一関節のない指先や膝下からも伝い落ちているからだ。失血死する前に切断面をスティーブンの血凍術で凍らせておいたので、失血死は免れているはずだ。多分。
死にかけた男を目の前にしても、なまえに動揺などない。あるはずもない。彼にとって、男も、恐らくはスティーブンさえも羽虫同然だ。その事実に苛立ちを覚えたが、それがどうしてなのか、考えればいらぬ考えを生み出しそうなので放置している。

「放っておいてくれないか。お前には関係ない」

「まあそうなのだけれどね。人間というものは、摩訶不思議だねえ」

摩訶不思議の塊のお前が言うな。
そう言ってやりたいのは山々だが、以前似たようなことを言った際、「違いない!」となまえはゲラゲラ笑いだし、地面にもんどりうってのたうちまわったために諸々台無しになったことがあるので、スティーブンは懸命にも口に出すのをやめた。えらい。

「君のこの非道の数々が、大衆を掬う一助となる。その手段を問わない方法は、君らの法では赦されず、けれど確かに、誰かを守る。不可思議で、未知数で、理解不能だ。全くどうして、おかしなことだ。正義のためには手段を択ばないとはこのことかな。大多数のために少数を切り捨てる。合理的だが、非人理的だ」

「うるさい」

指先を伝う血を払い、汚れるのも構わずスラックスのポケットから煙草を取り出す。どうせ裾も汚れてしまったのだ。構うまい。汚れをスラックスに擦り付け、箱から取り出した煙草をくわえる。
パチン、と指を鳴らす音が響き、目の前に火が差し出される。指先に灯るその小さな炎を見つめ、ひとつ、溜息を吐いた。この男に何を言おうが無駄なのだ。箱に入ったままのジッポを取り出すことなくまたスラックスへ箱を突っ込み、一本だけ出したままの煙草の先を炎へと近づける。耳障りな荒い呼吸が部屋に響いていたが、二人共それを無視した。二人の邂逅に、そうした音はいつものことだからだ。

「会うたびに君の魂は濁ってゆく。美しいね。魅力的だ」

口説き文句なのか、色の混じった声でなまえが呟く。全く嬉しくない褒め言葉に、なまえのセンスのなさを感じる。濁る魂のどこが美しいのか。
美しい魂というのは、きっとクラウス・V・ラインヘルツのような人間にこそ宿るものだ。崇高で、気高く、信念があり、それに伴う強さも兼ね備えている。諦めない心は正道を突き進み、どんな困難さえも乗り越えていくだろう。そんな彼の副官を務められることが、誇らしくてならなかった。彼の助けになりたかった。彼の行く末を見守りたかった。彼の進むべき道の、露払いをしようと、思った。

気づけば深い闇の中。抜け出せない泥沼に足をとられ、先を進むクラウスの、その背中を見つめていた。隣に立つことは、もうできそうになかった。
正道だけではどうにもならないことがあると知った。正道では遅すぎ、喪われる命があった。それらを救うために非道になろうとも構わなかった。そう、今でも思っている。

たとえそのために彼の目をまっすぐに見れなくなったとしても、それでも。

「自己犠牲は尊いものだよ。惜しむらくは、それが私に向けられたものではないことかな」

スティーブンの身の裡を読んだかのように、なまえは不意にそう呟いた。いつの間にか俯いていた顔を上げれば、なまえの細く長い指が、スティーブンの目尻を隠す髪を払う。顔に残ったままの傷痕に触れ、指先で軽く弾いた。弱い力とはいえ眼球の間近でされたことで、衝撃に後ろへと下がり、顔を伏せてしまう。

「君の憧れのヒトほどではないけれど、君の魂もまた、崇高だよ。美しいマーブルを描いて濁る魂なんて、そうお目にかかれたものじゃない。君というひとは、崇高で気高く、そして現実的で合理的だ。目的のために手段を択ばず、非人理的な行いによって君の気高い魂は濁りゆく。正と偽、善と悪、君の心が、信念が、君の魂に彩りを添える。その美しさたるや、憧れの君なんか石ころ同然だと私は思う」

「なにを……」

そんなことが、ある訳がない。
スティーブンにとって、クラウスは特別な存在だった。その確固たる意志。理想を求め、それを実現させるための力を備えている。幾度もの挫折があろうとそれに足を折ることなく、たゆまぬ努力で以て、己が正しいと思う道をゆくひと。彼の真似なんてできないし、しようとも思わない。眩しくて眩くて、スティーブンはクラウスを直視することができない。
信じがたいというスティーブンの心情を察したのか、なまえは微笑し、まぶたに口づけを落とした。

「ようは、好みの問題だよ」

「――は、身もふたもないな」

「でも真実だからしょうがない。私は君を好ましく思っているんだ。贔屓も出るってものさ」

まるで共犯者かのように、二人で笑いあう。
なまえと名乗るこの不可思議な男が結局何者なのか、スティーブンは知らない。知る必要も、恐らくはない。
世界を救うために残虐な行いを重ねることは、スティーブンにとって苦行だった。なまえの言うとおり、スティーブン・A・スターフェイズという人間は、目的のためなら手段を択ばない。けれどもその行いに、呵責の念がないとは限らない。情報を得るために、有利にことを進めるために、非人道的な行いを重ねてきた。その中には、なんの罪もない、運悪く巻き込まれただけの人間だっていた。その数を数えるだけで、スティーブンの胸は押しつぶされたような心地さえする。

時折、考える。
果たしてこの行いは、真実、意味があるものなのか?

近くにクラウス・V。ラインヘルツという人間がいるからこそ、そうした疑念は常にスティーブンに付きまとう。彼は正道をゆくひとだ。そうして、求める道を、掴むひとでもある。露払いを、と始めたスティーブンの行いは、有益である保障はどこにもないのだ。

そんな思考に支配され、死すら考えた時期に現れ、スティーブンのすべてを肯定したのが、このなまえなのだ。彼はいつでもスティーブンを讃え、負に偏るスティーブンを引き戻す。彼が悪魔なのか天使なのか、はたまた別のものなのか。そんなことがどうでもよくなるくらいには、スティーブンを支え続けた。

スティーブンが負の感情を纏い、世界に、己に絶望する数瞬前に、彼はいつも現れる。まるでタイミングを計っているかのように、ここぞという時に現れては、その心をすくい上げた。
なまえがどういうつもりでスティーブンの前に現れるのか、見当もつかない。悪意によってなのか、善意によってなのか。人有らざる彼の心情を悟ることは不可能だ。それでもなまえはスティーブンにとって間違いなく恩人だ。
なまえの姿を視認できるものはおらず、故に彼のことを口に出すこともない。彼はスティーブンからの感謝を口に出させないし、誰かに知られたい訳でもないようだった。

ただ、そこに現れて、そこに居るだけ。
そうして誰にも知覚されず、姿を消してしまう。

彼という存在に慣れ、また彼がどんなタイミングで現れるのかを悟ってからというもの、今更面と向かって好意をさらけ出すこともできず、スティーブンは彼を「呪い」と称し、拗ねた子供のような態度をとってみせる。そんな自分も恥ずかしくて仕方がないが、なまえは気にしていないようなので、それで良しとすることにした。

「だ、れか、いるのか」

「おや」

ヒュウヒュウと隙間風のような息を吐きながら、椅子に座る名も知らぬ男が問う。彼を放置して会話をしていたスティーブンである。ようやくその存在を思いだし、そういえばいたな、なんて思いながら煙を吐き出した。吸われるわけでもなく、無為に消費され生まれた灰が、ほろりと崩れて地面に流れ落ちて行くのを横目で見ながら、拷問にかけていた男に視線を向けた。

「そこにいるのは、あくまか」

「おやおや」

なまえがぱちくりと瞬きし、邪悪に微笑んだ。スティーブンの隣から離れ、血塗れの男に近寄る。男の足元には多量の血溜まりがあるにも関わらず、水音ひとつ響かず、また波紋を生み出すこともなかった。相変わらず彼の存在原理がわからないな、と内心呟きながら、残り少なくなった煙草に口をつける。

「私の声が聞こえているとは! なんとまあ、まあまあまあ!」

芝居掛かった仕草は、揶揄っている証拠だ。また悪い癖が始まった。そして、時間が残り少ないことを知る。

「あくまなら、たのむ、おれのみかたをしてくれ、だいしょうはなんでもいい、ここからだしてくれ」

目隠しをされた男は、掠れた声を無理矢理押し出した。今にも血を吐きそうな、そんな声だ。よほど切羽詰まっているのだろう。思っていたより追い詰めることができていたようで、なまえのことさえなければあと少しで情報を得られていたのだろう。

「これはまた大きく出たものだ。代償はなんでもいいとはねえ……例えば君の愛する人の命でも? 全世界の人間の命でも?」

「ーー、な」

「考えが足りないのは切羽詰まっているからかな? それとも今まさに死にかけているから、心に余裕がないんだね。最早喪われたも同然の君の命や魂なんて、私にとっては無価値なものだと気づけないなんて!」

笑うなまえは、舞台役者のように大きな身振りで頭に手をやり、やれやれと肩を竦めた。男には見えていないだろうに、無駄なことをする奴だ。

「なまえ」

「なんだい、スティーブン。血だるまのゴミより遥かに価値のあるひと」

「お前の話に付き合ったお陰で、時間を無駄にした。僕の時間を対価に、お前は何をくれる?」

びくりと男の体が震える。己の行く末を知ったのだろう、カチカチと歯が鳴り、震えが止まらなくなる。そんな男を見てもなんの感情も抱けないくらいには、スティーブンはこの残虐的な所業に慣れてしまった。
死にかけているこの男の命になんの価値もないことを、スティーブンは知っている。己の感情のままに殺し、犯し、虐げてきた、その対価を、今こそこの男は払うべきなのだ。

「ずるいことを言うね、スティーブン・A・スターフェイズ。君のお願いを、私が叶えないとでも?」

「対価を支払ってもらうだけだ。僕の時間は貴重だし、残された時間もわずかだ。そうだろう?」

「違いない」

男の死は近づいていて、このままでは情報を引き出せない。それではスティーブンは困るのだ。
仕方がないなあ、となまえはニタリと笑い、男に向き直る。スティーブンに向けたその背は、ゾッとするほど恐ろしいものだった。背中だけでもおぞましさを感じるのだから、正面から見ればどうなることやら。頼まれたって見たいとは思わない。

「ついでにいただいちゃおうかなあ」

なまえの背後の影から、細く黒い触手のようなものが大量に這い出る。伸びたそれらはなまえの姿を隠すほどの量で、ゆらりと揺れたかと思うと、目にも留まらぬ速さで男を覆い尽くした。

「〜〜〜〜〜〜〜!」

声なき絶叫が部屋に響き渡る。男となまえは、目の前の大きな黒い繭のなかにいるはずだ。

「馬鹿だな……」

さっさと情報を吐いていれば、こんなことにはならなかったのに。

数秒で黒い繭は崩れ、そこにはなまえと、髪が白く染まり、干からびたような男が1人。男は黒い触手から放されると、そのまま地面に崩れ落ちた。まだ死んでいないのか、ぶつぶつと何かを呟いている。

「ああ、まずいったら。体だけでこれなんだから、魂なんかきっと食えたものじゃないな」

大きな溜息を吐いて、なまえが眉間に皺を寄せる。いつの間にか彼の手には紙の束が握られていて、なまえは触るのも嫌とでもいうようにスティーブンに押しつけた。

「君が欲しがってたものだよ。これでいいかね?」

「充分だ」

パラリと紙をめくると、求めていた情報や、それ以外の重要な情報もズラリと並んでいた。流石だ。思わず感嘆の溜息を吐くスティーブンを見つめるなまえは、こう、胸焼けでもしているような顔をしている。

「気分がとても悪いのでそろそろお暇するよ。悪いね」

「いいや、こっちこそ助かった」

「そこのゴミの処理はお任せするよ。大丈夫、夢を見ているだけだからね。死にたくても死ねないような、素晴らしい悪夢さ」

「……どうも」

よたよたと歩くなまえは見るからに弱っていて、胸焼けより食あたりかな、とスティーブンは見当違いなことを思った。スティーブンが拷問にかけていた男は、よほどロクでもない人生を歩んできたらしい。調査記録でしか知らなかった罪の数々の実態をこんな形で知る羽目になるとは、感慨深いものがある。

「では、また」

「……また」

お互い手を振りあって、別れを告げる。なまえは現れた時のように、己の影へと沈んでいく。

「ーーなるべく間隔を空けて会うのがいいんだろうね」

頭のてっぺんが影に飲み込まれる寸前。なまえの呟いた一言に、スティーブンは思わず呟いた。

「……尤もだ」

文字通り影も形もなく消えてしまったなまえがいた場所を、スティーブンは見つめる。
なまえが現れるのは、スティーブンの精神が追い詰められ、死を想う時ばかりで。自身の精神状態の健康を損なうような羽目に陥るのは避けたい。しかしそれは、なまえに会えなくなるということと同義だ。

今回のようになまえに会えば便利ではあるので、全く会いたくないという訳ではない。
だから、そう。年に3回。それくらいが丁度いい。

己の感情に気づかない振りで、スティーブンはそう言い聞かせた。

「駄目だなあ、私は。美しいからと何度でも見に行ってしまう。そのまま放っておけば、もっと早くにあの美しい魂を手に入れられるというのに」

影の中でなまえがそう思っていることを、知らないまま。



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