部誌12 | ナノ


花のその



噎せ返るような花の香りと、青臭い緑の匂いが入り混じっている。
巨大な温室は植物園もかくやというほどの規模で。これほど巨大な温室が、このHLという異常な街で人知れずそっと存在していることに、毎度のことながら驚きを隠せない。垂れさがる蔓を払い、温室の中心部に辿りつくと、そこに目的の人物はいた。

「やあ、いらっしゃい。そろそろ来るころだと思っていたよ、スティーブン・A・スターフェイズ」

銀のフレームか彼の金髪か、きらりと反射した光に思わずスティーブンは手のひらで目を守った。

「やあ、久しぶり、プロフェッサー・みょうじ」

スティーブンの返答に穏やかに微笑んだプロフェッサーことなまえ・みょうじは、機嫌よさそうに手元のハンドルを操作し、乗っている電動車いすをUターンさせた。

「ひとまずはお茶にしよう」

「いいね」

キュルキュルと音を立てて進む車いすの後を追いながら、スティーブンはジャケットを脱いだ。常夏とは言わないものの、この温室はジャケットを着込んだままでは少しばかり暑いのである。
すでに見慣れた金髪のつむじを見守りながら、スティーブンは今日のお茶の種類に思いを馳せた。



なまえ・みょうじは、情報屋である。
彼の手にない情報は存在しないと言っていい。その情報がどこから、どんな風に得られているのかスティーブンには検討もつかない。彼はこの温室を楽園と定め、王として君臨した。温室は彼の王国で、民は彼を崇拝する数人のみ。スティーブンの目の前のティーカップを用意したのも、彼の民であり、彼の僕だ。
王と表現するからにはなまえをプロフェッサーと呼ぶのも変な話なのだが、彼の通り名がそうなのだから、今更変えようもない。そもそもこの王国は秘されており、存在を知る者がいても、その場所と知る者は一握りなのである。つまり彼が王であることを知るものの方が少ないのだ。
また、彼が【血界の眷属】であることを知るものも、少なかった。

ふわり、と花の香りが際立つ。今日は花の紅茶か、と思いながら、スティーブンは促されるままカップに口をつけた。なまえも嬉しそうに紅茶を口にしていた。普段はコーヒーばかりで、フレーバーティー以前に紅茶自体に馴染みのないスティーブンだったが、ここに通うようになって、ようやく紅茶のうまさというものを理解できるようになってきた。それを告げた時の嬉しそうななまえの様子を、今でも鮮明に覚えている。

「今日もうまいな」

「そうだろう。うちのこの淹れる紅茶はほんとうにおいしい」

きらきらと輝かんばかりの笑顔である。後ろに控えたメイド姿の女性もまた、嬉しそうに頬を染めている。あれはスティーブンに褒められたからではなく、敬愛する王に褒められたからだ。なまえの治める民は、狂信的な人間が多い。なまえに大恩のある人間ばかり集められているのだから当然と言えば当然か。狂信者が狂信者を選定するのだから、なまえの王国は、人数はどうあれ、安泰だ。
だからといって、彼の集める情報は彼の民から得たものではないらしいのである。車いすの彼がどのようにして情報を集めているのか――そもそも、何故【血界の眷属】である彼が、車いすで生活しているのか。その疑問は恐らく一生スティーブンの心に留まり続けるだろう。答えを得るつもりがないのだから、仕方のないことと言えよう。そんな些細な疑問より、優先すべきことは山のようにあるのだ。

穏やかなティータイムだ。
恐らくは、混沌の街HLでは今日も誰かが簡単に死んで、誰かが難を逃れ、誰かが悪巧みをして、誰かが必死に生きている。この温室、この王国の外には危険なもので溢れている。この空間にいる時間だけが、スティーブンに穏やかな日々を思い出させる。時折交わされる世間話以外は心地よい沈黙が横たわり、かつての過去を偲ぶのだ。

けれど、とスティーブンは思う。
今まで生きてきた人生の中で、平穏無事な時間なんて、きっと一瞬だってなかった。そんな人生を、スティーブンは自ら選んで、生きてきたのだ。

「――本題といこうか、スティーブン・A・スターフェイズ」

カップが空になったその瞬間が、合図だった。微笑を浮かべながらも、眼鏡の奥のブルーサファイヤの瞳は感情を浮かべてはいなかった。それにごくりと息を飲み、スティーブンは慄く己の心を叱咤しながら、不敵に笑う。

「お願いしよう、プロフェッサー・なまえ・みょうじ」

今、目の前にいるのは、先ほどまでの穏やかな男ではなく、百戦錬磨の情報屋だ。求める情報の対価に何を要求されるのか。考えるだけで背筋が震える。

この温室をみたとき、スティーブンは己の所属するライブラの長、クラウス・V・ラインヘルツが好きそうな空間だと思った。穏やかなこの温室の主が木々や花々を愛でる姿を見て、クラウスと気が合いそうだと、そう思った。
だからこそ、彼をここに連れてくる訳にはいかないな、とも思う。何を要求されるかわかったもんじゃない。

さわり、と風もないのに木々が、花々がざわめく。
大輪の花を背後に従えながら、狡猾に瞳を輝かせる王の笑みに、スティーブンは花の香りのする紅茶を何故だか恋しく思ったのだった。



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