部誌12 | ナノ


ネオンサインに導かれて



「ここでいい、停めてくれ」
はっきりと告げる。難解な路地をくぐり抜け、その先の目的地へとハンドルを忙しく動かしていたタクシーの運転手がチラリとバックミラー越しになまえの顔を見た。
「はい」
短く返事をする。運転手は必要以上に話さなかった。空港で拾ったタクシーの車内は、タクシーが都内に近づき窓の外が明るくなるにつれて静かになっていった。彼がおしゃべりな運転手であったのははじめだけで、相槌ひとつ返さないなまえに黙りこくってしまった。気分を害したわけではない。ただ、軽い世間話として振られた話題がなにひとつわからなかったというだけだ。
もともと、なまえはコミュニケーションが不得手だ。さらにしばらく日本を離れていたので、ゴシップにも最近の日本の気候にも疎い。
――彼には、おれはどのような人間に見えているのだろうか。
顎を撫でると、ザリ、と長時間のフライトのなかで伸びてしまったヒゲが指にあたる。少しだけ痒い気がしてあとで赤くなっては面倒だと手をおろした。長い付き合いだった顔を隠していたヒゲは、飛行機の乗り換えで泊まった空港のホテルで剃ってしまった。必然性はなかったが、目の前に用意されたアメニティの中に剃刀をみつけて、自然と手が動いた。
伸びっぱなしの髪の毛はひとつにまとめて邪魔にならないから、そのままにしてある。先はよく砥いだナイフで切り揃えてあるので、さほど、不格好ではないとホテルでは思った。しかし、どうだろう。整髪剤で形作られた歩行者の頭をみていると、どうにも判断を誤った気がしてくる。歩行者のなかに、ボサボサの髪の男を見つけて、なまえは少しだけ安心した。免税店で買った服も、大丈夫だろう。キャビン・アテンダントが顔を引き攣らせたボロボロのジャケットは捨てて正解だった。
タクシーが路肩に停まる。カチカチと停車をしめすライトの点滅音が響く中、なまえは用意してあった金額を運転手に差し出して「釣りはいい」と言うと、着替えの下着とパスポート等最低限のものだけが詰められたスカスカのバックパックを肩に担いで、ひょいと車外に出た。
「お客さん!」
こんなにもらえませんという運転手に「チップだ」と述べると、運転手はそれ以上何もいわなかった。

雑踏をしばらく歩くと、人の流れの邪魔にならない場所で立ち止まる。田舎者のようにあたりを見渡しながら、アジア人ばかりだとなまえは思った。ちらほらと日本語ではない言葉が混じると、少しだけ安心した。日本語の通じない異国があれほどに不便だったというのに、すっかり慣れてしまった今となっては、すべてが日本語だというのは落ち着かない。
母国語というのは小さなつぶやきひとつとってもすべてわかってしまう。コミュニケーションが苦手ななまえにとってははじめからわからないほうが安心できた。
夜だと言うのに明るい街にはひとが溢れている。なにかを目的に歩く人間と、さまよう人間が入り混じって、混沌としている。そう思うのは、なまえが彷徨っているからだろうか。
タクシーを降りたのは、車内の空気が悪かったからではない。あれくらいの気不味さは気不味さとは呼ばない。
歓楽街のネオンサインを見たとき、なぜか、呼ばれた気がした。ここで降りなければと思った。こういう勘は無視できない。この感覚でなまえは生き延びてきた。
暇そうに立つなまえを見つけた客引きが声をかけてくる。人懐っこい笑顔で声をかける男を無視して、なまえは再び人の流れに身を投じる。たしか、2つ先の道路だった。なまえが停めてくれと言った時点でひとつ交差点を越えていて、中央寄りの車線を走っていたタクシーはすぐには停車出来ず、さらにひとつ、交差点を乗り越えた。なまえは自分を呼んだネオンサインを目指す。
チカチカとまばゆい看板の中には目まぐるしく主張を変えるものもある。動く光をつい目で追ってしまって、なまえは口元を歪める。文明的だ、となまえは思った。その中でネオンサインはひどくおとなしく、古いように感じる。いや、ネオンだって文明だ。ひとが集まって、電気が通う場所でなければ、ネオンサインは存在しない。
向こうにもネオンの看板はあった。大抵はバーの看板で、ポツリと浮かび上がって街を彩っている。なまえだって、いつでも紛争地帯でカラシニコフを背負っているわけではない。時代は変わった。いや、なまえの嗜好が変わったのか。運ひとつだけで生き延びる仕事から徐々に離れていって、気がつけば二度と踏むまいと思っていた母国の土を踏んでいた。
「……誰かと思えば」
声を、拾う。けっして大きい声ではなかった。なまえは大抵の声は聞き流してしまうことにしているから、つぶやきのような声をはっきり認識することなんて、まずない。しかし、その声は、ざわめきのなかで、はっきりと浮かび上がって、なまえの耳に届いた。
「……なるほど」
声の主を見つけて、なまえは顔を顰めて吐き捨てた。
大抵、勘の裏側には表層意識で処理しそこなった情報がある。それは可聴域ギリギリの音だったり、小さすぎて気が付かない汚れだったりする。今回は、雑踏の中に見知った顔を見つけた、そういうことだろう。
これのことだと気がついていれば、降りなかったのにと、なまえは大きく息を吐いてズボンのポケットを探ってそこにあるべき尻で潰されたタバコの箱が無いことに気がついて舌打ちをした。
飛行機に乗るときに捨てたのだと思いだした。
「なにがなるほどですか。ひさしぶりに見た友人に対する反応がそれですか」
「悪いな。それより煙草持ってるか」
「持ってませんよ」
さらりと答える金髪の男は、なまえの古い友人で、降谷零という。相変わらず洒落た服を着ている。なまえが知っている彼の大半は警察学校の制服だったから、相変わらず、というべきではないかもしれない。けれど、何を着てもどうにも野暮ったいなまえとは異なり、降谷はいつでも洒落て見える。典型的な日本人顔の雑踏の中で、この間までいた異国の地を思わせるカラーリングの男の顔を眺めながら、彼のズボンのポケットに視線を落とした。
道の真中で立ち止まったなまえに、足を止めて何かを言いたげになまえの顔を見て口をつぐみ立ち去る男に、なまえは降谷と連れ立って邪魔にならないところに場所をうつす。なにごとにも非の打ち所がないこの男は、なまえが何を言わなくてもアイコンタクトひとつで読み取ってみせる。
「……にしても、その服どうしたんですか? 前々からひどいと思っていましたけれど、ここまでとは思いませんでした」
「そんなに悪いか」
「できれば知り合いだとは思われたくありませんね」
軽口を叩きながら、降谷はそれでもなまえの隣に立つのをやめない。歓談と言うには近い距離で、言葉をかわす。これは、密談の距離だと思う。バックボーンの暗い人間たちが、情報をかわすような距離で歓楽街の片隅にふたりは立っていた。
「用意された席がなぜかファーストクラスだったんだ」
「……帰ったばかり、ですか」
その言葉に、なまえはふと、日本を離れた理由を思い出した。あのときはそればかり考えて逃げるように旅立ったというのに、帰ってきてみれば、ふと思い出す程度でしかない。
「……何年だっけ」
「7年ぶり、ですよ。……貴方が、ずっと帰国していなければ、ですけれど」
「思ったより短いな……もっと、昔かと思った。なぁ、伊達は元気にしてるか」
薄れていた記憶が、降谷零という人間を起点にして蘇っていく。遠くて思い出すのも困難だった記憶が、カラーテープを引っ張るみたいにずるずると引き出されて、彼と一緒に成績上位を飾っていた男の気さくな顔をなまえは思い浮かべた。
「……死にましたよ」
「……警察って言うのは、ずいぶん危険な職業だったんだな」
なまえの素直な感想が、それだった。ミサイルが飛んできて、さっきまで生きていた仲間が肉塊に変わっていた、そんなところに居たなまえが生きていて、平和な日本にいた知り合いが死んでいる違和感が馴染まない。この数年でなまえは人の死になれた。この、母国とは違う場所にいる異国の血が流れることに慣れただけだと思っていた。思ったより、動かないこころに、なまえは驚いた。
「松田も死にましたよ」
「そりゃ……気の毒に」
すこし繊細なところのあった友人の顔を思い浮かべながら、なまえはそういった。母国語で口にしたお悔やみの言葉はひどく冷たくなってしまった。その冷たさに降谷は口元を歪めて、嘲笑う。
「貴方のお悔やみで、松田も少しは浮かばれるでしょう」
降谷の皮肉になまえはなにも答えなかった。なまえがこうやって黙り込めば、必ず間を取り持つ友人がいた。その二人の間にあった共通の友人が、ひとり、ひとり、と欠けていったことを知って、なまえはそれ以上聞くのはやめた。
しらなければ、どこかで生きていることにできる。なまえはそう思っていた。
「……ところで、あなたはこれから何をするんですか。また、海外に?」
「……いや、しばらくこっちで職を探す」
傭兵なんて危険な稼業を渡り歩いて、なまえはたぶん、少し変わった。相変わらず人付き合いは苦手だけれど、母国で、生きて行くのもいいと思えるようになった。
そういえば、どうして急に日本に帰ろうと思ったのか、思い出せなくてなまえは記憶の洗い直しをする。
虫の知らせ、だっただろうか。
「紹介しますよ。人間性はともかく、あなたの腕はかっていますから」
軽い調子で言った降谷になまえは首を傾げた。そういえば、彼は今、警察官をやめたのだろうか。なまえが知るだけで警察官の知り合いを3人も亡くした彼は、まだ、警察を続けているのだろうか。なまえはひとりを失っただけで、逃げ出したくなったというのに。
「……おまえは、何をしているんだ?」
「喫茶店のバイトですよ」
そういうこともあるかもしれない、と、へぇ、と答えようとして、なまえは顔を上げた。なにかの掛け違いに、なまえは気がついた。
違う。降谷零は、自分の積み上げてきたものを安々と手放したり、警察という職を離れることのできる男ではない。それをやめて、バイトなど、最もありえない選択肢だ。
砂と弾丸で埋められた思考回路が、蘇っていく。
喫茶店のバイトが、降谷が認めるなまえの腕に関係のある職を、紹介できるはずがない。
何を、元傭兵のなまえに、どんな職を、紹介するのだ。
「……なにを、しているんだ」
降谷が口元を歪めた。彼は、逃げ出したなまえを責めているのだと、なまえは思った。まだ、彼は警察という組織のどこかにいて、喫茶店のバイトという皮をかぶっているのだと、わかった。
「そんな顔もできるんですね、他人には興味がないのかと思っていました」
「……おまえは、生きているだろう」
なまえの声を聞いたはずの降谷は、何も答えなかった。
その横顔を見て、なまえは、知らせてきた虫の正体を、掴んだ気がした。



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