部誌11 | ナノ


残り香



不意に五感に誘われて、過去を思い出すことがある。
見覚えのあるものだったり、懐かしい曲だったり、美味しいご飯だったり、肌触りだったり。
僕にとって、彼を思い出すきっかけは、香りだった。




ふわりとくちなしの香りが鼻をくすぐると、亜双義一真は僕の隣に立っていた。それは初夏の開花時期になれば毎度のことで、いつしか僕は、くちなしの香りは亜双義の香りだと思うようになった。

「家の庭に、くちなしの木があるんだ。母が気に入りでな、手入れさせている」

いい匂いがする、と鼻をすんと動かした僕に、まるで浮気を言い訳する男のように亜双義は説明してくれた。ふうん、と頷きを返し、亜双義の学生服に鼻を寄せて、その香りを吸い込む。

「なまえ?」

何故だか体を硬くした亜双義からは、やっぱりほのかに花の香りがした。移り香のようなそれは強すぎず、亜双義の匂いと混じって、とてもいい匂いだ。

「うん、この香り、僕は好きだな」

ほどよいね、と笑う僕に、亜双義は壊れたからくりのように突然ぴたりと制止した。どうしたことかと目を瞬かせると、俯き、目を覆い、大きな溜息を吐くではないか。

「亜双義?」

「いや、まあ、うん。貴様はそのままでいろ」

「? うん」

そのままがどういう状態なのか、僕自身のことのはずなのにさっぱりわからない。けれどこういう時の亜双義に何を言っても怒られるだけなのは身を以て知っている。
その教訓を持ってして頷いた僕に亜双義は再度大きな溜息を吐き、ぐしゃぐしゃと頭を撫でた。

その時亜双義の肘のあたりにおそらくくちなしのだろう花粉が移っていることに気づいたが、教えたりはしなかった。亜双義もたまには蜜蜂のように、花のキューピッドになればいいのだ。
花のキューピッドな亜双義。なかなか面白い。思わず吹き出した僕に亜双義は訝しげな顔をしたが、賢明な僕はだんまりを決め込んだのだった。


僕と亜双義の関係といえば、実はよくわからない。亜双義は父の教え子で、よく我が家に遊びに来ていた。対応をするのはもっぱら才女と名高い姉の仕事で、僕は客人が来てもぐうたら布団で寝っ転がっている駄目な息子だった。
接点があるように見えるかもしれないが、その実客人を歓迎するのが面倒な僕は引きこもりなので接点らしい接点はない。あるとすれば厠くらい。僕はそれも面倒で、父に聞いた客の来訪予定の時間より前に厠を済ませ、やり過ごしている。父はそんな僕の態度に腹を立てていたが、どんなに怒られようが態度を変えない僕に、次第に諦めるようになったらしかった。

その日も、僕は客人の来訪時間より先に、厠に行く予定だった。午前中に客が来るなど、面倒なことだ。午後まで寝ようかとも思ったが、客人がいる間に厠を使用しようとすれば、父の教え子とかち合ってしまう。それは避けたいと、のっそりと布団から起き上がって厠へ向かった。

す、と自室の引き戸を開ければ、視界が黒く染まる。

「貴様……御琴羽教授のご子息か」

「……いかにも。して、何用か」

頭上から低い声が落ちて来たので、不思議に思って声の主を見上げる。キリリとした男前だ。言葉遣いが些か古く感じるのは、僕が最先端な人間だからだろうか。
なんて、そんな訳のわからないことを考えながら時代劇ごっこよろしく返事をすれば、青年は亜双義一真だと名乗った。聞いてないのに。

「おれは貴様に会いに来たのだ」

へえ、と返事を返して、僕は引き戸を閉めた。
あとから聞けば、引きこもりがちな僕を心配した父がうっかり亜双義に愚痴をこぼし、じゃあ俺が友達になりますね、という意味のわからない慰めをした亜双義が父に感謝されまくり、後に引けなくなってしまった、ということらしい。アホである。
そもそも僕が家に引きこもっているのは研究のためで、僕の研究が父の研究に役立つらしく、せっつかれているからだ。せっついた本人がそれを忘れているのも、友達がいないと思われていたらしいのも業腹だった。

くそ真面目な亜双義は、前言を撤回するわけにはいかないと、僕につきまとった。はじめのうちは拒否していたけれども、亜双義のしつこさに負けて、多分僕らは、友達という関係にある。はた迷惑なこともあるが、いいやつだ。いいやつ、だったのだ。

日本に届いた空の棺を前に、僕は立っていた。なんだって死体がないんだ。首を傾げるも、答えてくれるひとはいなかった。それはまあ、そうだ。棺を絶対に開けるべからずと、恐らくはお上がそう厳命した。
父にそう指図するどこぞのお偉い将校さんの姿をひっそりと盗み見していた僕は、聞かなかった振りで、未だ隔離されている亜双義の棺を開けた。絶対に開けるべからずと厳命するならば、釘でも打ちつけるか、護衛でも置けばいいのに。馬鹿はどこにでもいるなあ。

それはまあそれとして、空の棺である。なんだって空なんだ?
傾げた首を元に戻し、埃ひとつない棺の中に頭を突っ込む。くん、と鼻を動かしても、くちなしの香りはしない。

「ははあ、なるほど?」

死体のない空の棺。これまたなんとミステリーな。かつての彼の残り香さえない棺は、容易く僕を悲しみから救った。

なるほど、なるほど。
恨みつらみが増えそうだ。
覚悟しておくがいいよ、亜双義。



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