残り香
煙草は義父の匂いだった。
義父はよくにいうヘビースモーカーという奴で、一日に何箱も空けていた。
ラッキーストライク。義父が特に好んで吸っていた銘柄であった。
『父さん、煙草って美味しいの?』
一度だけ義父に聞いたことがある。よく義父は自分に煙草のお使いをさせていたものだから純粋な興味を抱くようになった。美味しいのならば吸ってみたい、不味いのならば吸わなくてもいいや。そんな軽い気持ちで義父に尋ねると半分まで灰になっていた煙草を口から外して器用に煙の輪っかを作り出す。
『美味くはない、でも不味いわけでもねえな』
『それって吸ってて楽しい?』
『楽しくもない。でもつまらなくもない』
『……結局どっちなのさ』
美味くもなければ不味くもない、楽しくもなければつまらなくもない。あべこべな答えに納得が出来ずに答えを催促する。ねえねえと袖を引く自分に義父は乱暴に自分の頭を撫で回した。
『お前も大人になりゃあ分かるさ、きっとそのとき俺の気持ちが分かる』
でもなアラン、乱雑だった手つきが優しく髪を梳いて整えていく。
『煙草は二十歳になってからにしとけ、若いうちに意気がって吸うと早死しちまうから』
あと禿げるから極力吸わないことを勧めておくぞ。近所の女男を虜にさせる凄みのある微笑と共に告げられた一言があまりにも強烈で黙って頷くことしか出来なかった。
「君も煙草を嗜むのだな」
物珍しげに話しかけてきたのは最近入隊したばかりの新人だった。なんでも眷属を密封できる期待の新人だそうだが、図体のでかい厳つい容貌とは裏腹に中身は世間知らずの坊っちゃんだった。
そんな坊っちゃんの琴線に触れたのか、興味津々なご様子に居心地を悪さを覚える。お貴族様だからこんな安い煙草を見たことがないのか、ちょっとした気まぐれで煙で輪っかを作って見せれば坊っちゃんの周囲に花が咲き乱れた。こんなもので喜ぶなんて子供じゃあるまいし、呆れながらも口元が自然と弛んでしまうあたり自分も自分だ。こんなすぐに出来る小ワザで喜ぶ姿が昔の自分と被ったからかもしれない。
「まあ人並みにね、なんだ興味でもあるのか?」
「う、うむ……煙草とは、そんな美味しいものなのかと気になっていたのだ」
ここの部隊の者は皆煙草を嗜んでいるし、君も吸っていたのでさぞ美味しいものなのだろう。
一度も吸ったことのない世間知らずは照れながら語る姿があまりにも眩しい。これでまだ二十歳も超えていないのだ、いや二十歳になる前から吸っていた自分を思い出せばこいつのほうがずっと純粋過ぎる。
それ以上見たら目が潰れる気がしてわざとらしくないように振る舞いながら手に持っている煙草を見る。自分がいま吸っているのはラッキーストライク、かつて自分を育てた義父が吸っていた銘柄であった。親指で吸い口を擦りながら坊っちゃんの疑問に応える。
「そうだなぁ、正直な感想をいえば美味しくない」
「む、ではなぜ」
「でも不味くもない」
大昔に自分が尋ねた質問に答えた義父の言葉をそのまま口にした。肯定とも否定とも取れない答えに坊っちゃんは首を捻る。
「……ではなぜ君は吸っているのだね?」
「うーん」
今度は上手く答えが見つからず、吸い口を撫でながら考える。
思い出すのはラッキーストライクを好んで吸っていた義父、身寄りのない自分を引き取った物好きな男。それなりに可愛がられていたと思う、だが自分が10歳を迎える前に突如いなくなった。結局のところ、他の大人と同じだった。顔だってもううろ覚え、声なんてとっくに忘れている。
けれど、不思議なことに唯一残っているーーーラッキーストライクの匂いだけは未だ忘れられない。
これを吸っているときだけ、そんな義父を思い出す。たったそれだけ、他愛もない理由だ。
だからといって、それを目の前の新人に話すつもりは毛頭ない。律儀に答えを待ち続ける坊っちゃんにニヤリと意地悪く笑いかける。
「お前も大人になったら分かるさ、でも煙草は二十歳になってからにしとけよ」
いまだったら義父の言葉を身にしみて分かるからこそ口に出来る。ついでに最後の言葉もそのまま伝えれば青醒めてコクコクと頷く姿までそっくりで耐えきれず吹き出してしまった。
このあと、血の眷属の討伐で向かった先で監禁されていた義父と再会したり、そんな義父に一目惚れしてしまった哀れな相棒の恋を必死に阻止する羽目になるなんてこのとき思いもしなかった。
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