瞼の裏に
「サッチ隊長の御飯が食べたいなぁ」
ふと零してしまった呟きに、なまえは慌てて口を塞いだ。
辺りを見回して、誰もなまえの言葉を拾っていないことに肩を撫でおろし、ゆっくりと息を漏らす。
ここが「ワンピース」の世界だと知らず、困惑しながら適当に乗った船が嵐で難破して、瓦礫にしがみつきながら海を彷徨った末に身体の力が入らなくなってきた頃、なまえを見つけたのがその時見張り役をしていた白ひげ海賊団のサッチだった。
身体はやつれ、行く場所も帰る場所もないなまえに居場所を与えたのは海賊団の船長である白ひげだが、そうなる過程のあれこれをしてくれたのもサッチだったし、その後、なまえの世話を全て任されたにも関わらず嫌な顔を一つも見せず、世話を焼いてくれたのもサッチだった。
あれから何年もの時が過ぎ、なまえが一番と言って過言ではない位に世話になったサッチは、既に故人となっている。
サッチはこの船に乗っていた兄弟に殺され、なまえが駆け付けた時には既に息を引き取っていた。
感謝の言葉も、別れの挨拶も終えた今でも、なまえはよくサッチの事を思い出した。
出会った時からなまえに世話を焼いてくれたサッチが一番初めにしてくれたことは、なまえに料理を食べさせてくれたことだ。
それは自分を料理人だと称するサッチが手作りしてくれたもので、あの時食べた料理の味をなまえは忘れることはないだろう。
それ以来、すっかりとサッチに懐いたなまえは、鳥の雛よろしくずっとサッチの後ろをついて回った。サッチが料理を作るならばそれを手伝い、味見をしようものならばおこぼれをもらい、出来上がったものは一緒に食べた。
サッチが嫌な顔を一つもせずになまえを連れて回ったせいか、なまえは料理のスキルをめきめきと上げ、サッチがいなくなった後の船の食事はなまえが穴を埋めている。
「なまえの包丁捌き、随分と上達したな」
「そりゃあ最初の頃に比べればね」
「あの頃は自分の指まで料理してたのに」
サッチとそんな会話を交わしながら何度も一緒に料理を作ったことを覚えている。
指が血まみれになってサッチが大慌てしたこともあったのに、今では血を流すことはない位に上達した。サッチがいなくなってからは黙々と作る事が多くなったからか、なまえ自身の口数はめっきり減ってしまったが、会話相手であるサッチが居なければ、包丁のリズミカルな音と肉や魚が焼ける匂いが充満するだけの厨房だと知ったのはつい最近の事だ。
「サッチ隊長の御飯が、食べたいなぁ」
なまえは静かに眼を閉じる。
サッチが作った料理の味をすべて覚えている。だけど、それを再現することは出来ないだろう。どんなに似た味を作ることが出来ても、やっぱり何かが違うのだ。
サッチが亡くなってから、なまえは毎日サッチのことを思い出していた。
それは悲しみと、寂しさと、楽しかった頃の思い出に縋っていただけの行為だったが、それが次第に変わってきたのは、なまえ、と呼ぶサッチの声が思い出せなくなった時だった。
人は記憶が薄れる時、最初に忘れるのがまず声だと聞いたことがあるが、きっと、それは正解だ。出会ってからサッチが亡くなるまで、毎日たくさん名を呼ばれた筈なのに、サッチがどんな声をしていたのか、今では思い出すのが困難だ。
しかし、なまえはサッチの笑顔だけはきちんと覚えていた。
会話をしながら食材を切り刻んで切る時も、自分好みの味付けに出来た時や、それをなまえに味見をさせる時、一緒にご飯を食べる時、サッチはいつだって笑顔だった。
見慣れたという言葉が出る位に、サッチはよく話し、よく笑う男だった。そしてその笑顔を見ながら、なまえはサッチとご飯を作り、一緒に食べる。
それがあの頃の当たり前で、毎日で、これからも続く筈の生活だったのに。
「……そうか、料理とあの笑顔がセットで、サッチ隊長の御飯だったのか」
そりゃあ、似たものしか作れないわけだ。
食べた後に美味しいと口にすれば、サッチはいつだって嬉しそうに笑っていた。
そんなサッチの笑顔を見ながら食べる料理が一番美味しかったのだと気付くには、失った代償は大きすぎるものだった。
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