瞼の裏に
目を閉じると見えるものがある。
初めは小さな白い点だった。仕事も繁忙期ということもあって固まった休みがとれず、いざとれたとしても次の日の仕事を思って心が浮上することはないし、やる気も起きずベットから起き上がれない。
「疲労かなあ」
しかしなんせ、病院に行く時間もない。仕事終わりの時間とはつまり、病院も仕事を終えてしまっているわけで。
救急搬送されない限り病院にはたどり着けそうになかった。
「申し訳ありませんでした」
客のもとへ行き、謝る事数回。八時間を超えた労働はミスを連発させる。ぐちぐちと文句を垂れる客の言葉をぎゅっと目をつむって頭を下げると、瞼の裏にある白い点が少し大きくなったように感じた。
「ほんと、困るんだよね、ほんと」
下っ端の私と違いでっぷりと肥えた腹を手のひらで撫でながら上司が言う。
私が庇った、本来客の文句も上司の小言も受けるはずだった後輩はすでに定時で帰っている。
彼が帰った後に発覚したミスだった。この上司ならすでにプライベートに移行した彼のもとへ連絡しかねない。その苦しみは新入社員の頃に嫌と言うほど経験したので、どうか彼に降りかかってほしくなかった。
あれはだめな文化だ。私はよく知っている。
「おい、この男斬ってやろうか」
「え?」
ついに幻聴が聞こえたらしい。男の声が不穏な言葉をつむいだ気がして、あたりを見渡すも叱られている私と目を合わせないようにして仕事をする奴らばかり。そしてばちりと目が合ったかと思えば、小言を垂れる上司ただ一人。
「君、反省してないようだね」
サドンデスに突入した小言に、どうかこれ以上面倒ごとが起きないことを祈った。
「さいあく」
結果、面倒ごとは起きた。起きて起きた。閉店時間ぎりぎりに商品のクレームが入り、店内に閉店の音楽が流れる中エプロンを脱いでスーツの上着を着る。
交換品のカットメロンを新たに切って、包丁は流しに放置して車のキーを事務所に取りに行く。
クレームの電話をとった事務員が無言で両手を顔の前であわせて申し訳なさそうに頭を下げた。いいから、はやくキー。
「申し訳ありませんでした」
本日三度目の謝罪の言葉を口にする。
どうやらクレームの商品よりたっぷりカットメロンが入っていたからか、客も出迎えこそ険悪な態度だったが、交換品とクレームの電話代が入った小封筒を出すとさくっと納得してくれた。
でも客は毎回言うのだ。
「次は気をつけなさいね」
次に訪れるクレームの機会を考えただけで、ずっしりと胃が重くなる。
閉まったドアに九十度の角度で礼をして三拍。背を向けたら意識せずともすっと表情が削がれた気がした。
これが私の日常。これからもずっと続く日常のはずだった。
「大丈夫ですか!お姉さん!」
それから数日後、瞼の裏にある白い点は、人型をしていた。しかも時々私が見ていると分かるのか、手を振ってくる始末。初めは自分の想像の産物なのではないかと、手を振れと念じたこともあったが、そんな時に限って私に気がつかないのか背を向けたままだ。
まだ視界を埋め尽くすほどには近づいていないが、人型をした元白い点は全身真っ白で、その白い人型の顔の部分には金色の点が二つ、きらきらと輝いていた。
「仕事、遅れる…」
「ちょっとお姉さん、動いて平気なんですか!いやダメでしょ、頭から血、血でてますよ!」
ぼんやりと野菜ジュースを啜りながら駅のホームに続く階段を下りていたところだった。端的にいうと、落ちた。頭から、受け身を取らず。
口の中で銜えたままだったストローで口の内側を削ったのか、口のなかで血の味がする。朝練に行く途中だった高校球児っぽい男の子が、仕事に向かう私の肩を押して地面にとにかく座らせようとしていた。
「でも仕事」
「仕事より自分でしょうが!」
男の子の言葉を最後に、ゆっくりと視界が黒くなる。
瞼の裏の住人が、驚いたように目を見開いているのが見えた。
そうか、その金色は、瞳の色だったのね。
「目が覚めたかい」
てっきり病院の白い壁か、見慣れた職場の店内でも見えるかと思ったが、そこにあったのは一面の紅葉だった。
横をみると、真っ白な、着物を見た男性が自分と同じように地面に寝転んでいる。
「あの?」
「君は覚えていないだろうが、昔はここでよくみんなと一緒に遊んでたんだぜ。いや、昔じゃないな、未来だから。だが未来だが、過去だ」
「えっと、よくわからないんですが」
まだ紅葉の季節ではなかったはず。額を触っても血はまだ乾いていなくて、それほど時間が経っているとは思えないし、一体ここはどこなのだろうか。
隣には悪意や敵意はないが男が一人、変なことを言っているし、何よりよく見れば自分の反対側、男の左側に無造作に鞘に仕舞われた刀が置いてある。
模造刀としても、男の渾身の打撃で負傷した額を狙われてみろ。終わりだ。
「ふうん、意外と冷静なんだな君は」
「冷静じゃないです」
「そうかい?俺に気付かれないように辺りを見渡しているし、逃げるチャンスを与えたらさっさと行動に移してしまいそうだが」
「気づかれてるんじゃ、意味ないですけどね」
「確かに。まあいいさ、どうせ俺が今から君にする話もこれからの話だ」
いいかい、君。
そう言って男はさっと身を起こすと、私の正面に座りなおした。金色の瞳が爛々と輝いている。どうかさっきの過去が未来で未来が過去で、みたいなよく分からない話でないことを祈る。
「君は今から目が覚めたら、病院ってやつだ。人間が手入れするところだな。そこで君は君が気絶しているうちに受けた検査結果を知らされる。いいかい、君。それについて君はすべてノーと言うんだ。断れ。君の幸せのためだ、分かったかい?」
「…話は分かったのですが、検査結果の内容は?どうして否定しなければいけないんですか?」
「教えたいのは山々だが、それについては答えられない。それを言ってしまうと、いけないんだ。いま君にこうやって干渉しているだけでも政府は良い顔をしないのは分かっている。でも君のことを考えると、もう…我慢ができなかったんだ。どうか、俺の言う通りにしてくれないか」
そっと取られた手を、まるで温めるように白い両手がさする。
目を見る限り、彼は本当に私を心配し、慮っているのだろう。それは痛いほどよくわかったが、それでも内容が分からないだけに素直に約束するのは憚られた。
「約束は、できません。でも、実際に検査結果を聞いて、それであなたの言うことに納得したら、その時は言われた通りにします」
「…ああ。ああ、そうしてくれ。君が俺の言う通りにしてくれることを俺は祈ることにしよう」
彼が諦めたように笑う。瞼の裏にいた彼より、今の彼は少し草臥れているような、いや、年月が経っているような気がした。
「あの…あなたは」
なんと声をかけるべきか。考えあぐねながらも、何とか声をあげた時だ。
ざわざわと紅葉が揺れる。風が吹いているのかとも思ったが、様子が違う。風で揺れているというよりは、ブレている。
「もう、時間か。仕方がない。仕方ないんだが…口惜しいな」
彼はもう一度笑うと、首を犬のようにぶんぶんと振ってから、ずっと握っていた私の手を離した。
「俺は、君を失った後の俺だ。君が選択肢を間違えてまた俺と会ってしまったら、どうかこの俺は忘れて、その俺を大事にしてくれ」
「お話が、よく」
お話がよく分かりません、そう言いたいのに、先ほどと違って声が上手く出ない。
「頼むぜ、ある…」
聞き違いでなければ、彼は私の事をアルジ、…主と呼んだ気がした。
「……」
ゆっくりと目を開ける。白い天井が見えて、彼が言った通りここは病院か、と当たりをつける。
体を動かさずに目だけを動かす。カーテンはひかれておらず、一人部屋だった。
一人部屋って高いんじゃないの。そう思いながら枕元にあるナースコールに手を伸ばす。
そしてやってきた白衣を着た医者と、どこから現れたのか黒いスーツの男性。
ベットから体を起こし、軽い検診を受けている間に、黒い男がずいと体を乗り出した。
「すみませんが、この後大切なお話があります。会社のことなど色々聞きたいことはありましょうが、すべて私が話しますので、しばしお待ちください」
そう言う男に医者は眉を顰めてちらりと視線を寄越したが、それでも特に何も言うことなく、「気分は悪くないですか?」と聞いてきた。
「…いいえ」
首を振ると、医者は健康だと言っているというのに小さくため息をついた。
そして気づく、あっこれ助け舟だしてくれてたやつだ。スーツ男の話先延ばしにしようとしてくれてたやつだ。
しかしもう遅い。スーツ男の黒い瞳は爛々と輝いていた。一瞬金色の瞳がそこに被る。
「ではすみませんが、話を。…あなたに審神者の資格があるとこのたびの検査で発覚しました。ちなみに拒否権はありません。これは…戦争なので」
あれよあれよと進む話に、私はノーと言葉を挟むこともできず、気づけば退職処分となり、時の政府とかいう私の知っている政府と少し名前が変わってる気がするし所在地も違う気がする機関へと連行され、そして…審神者になった。
「それでは次に、現在顕現が確認されている刀剣男士を見てみましょう」
審神者になるには知識が必要らしく、自分同様に戦争のため招集された一般人と肩を並べてスクリーンに映る人間の形をした刀剣男士を見る。
難しい名前や、似たような名前を持つ顔の整った人間を見ていると、ふいに知った顔が目の前に現れる。
「鶴丸国永…」
それは、瞼の裏にいた白い男だった。
どうやら私は、彼に与えられたチャンスを掴めていなかったらしい。いや、もうここにきてる時点で分かっていたことなのだが。
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