てのひらのおんど
惚れた腫れたでやきもきするのは、思春期のガキのすることだと、マルコは思っていた。
実際30歳を超えたあたりからそういうのは面倒になってきて、体だけのさっぱりした関係を好んだ。愁嘆場に付き合うほどの体力がもうないのだ。年齢を重ねるということは、やる気や根気の総量が減っていくことなのではと、最近思い至ったり、していたのだが。
「マルコ、さむい」
大の男が、毛布を胸に抱いて言うセリフだろうか。
これが他の人間ならば、気持ち悪いことを言うなと蹴り出しているところだ。それができないのは、ひとえにマルコが、目の前の男に惚れこんでいるからで。
「もうすぐ冬島ったって、まだそんなに寒くねえだろい」
「お前は不死鳥だからそんなことが言えるんだ……」
しょんぼりした顔で差し出された手を握れば確かに冷たい。夜は冷え込むようになったとはいえ、ここまで冷え切っていると、無碍にもできない。そういう体で、マルコは浮かれる内心を隠しきり、さも仕方なさそうに溜息を吐いた。
「……入れよい」
「おう」
そこはせめてありがとうだろうがよい、と思っても口にできないのもまた、惚れた弱みなのだ。
一番隊の隊長であるマルコが、四番隊の平隊員であるなまえという男を意識し始めたのは、何年か前の誕生日のことだった。
飲めや歌えやで騒がしい船内で、主役であるマルコはひたすら注がれ続けるジョッキの中身に恐れ入り、トイレといって祝いの席から逃げ出していた。主役がいなくても喧噪が止まることがない様子に苦笑しながら、嘘を真にするかとトイレのある方に向かうと、看板の隅に毛布の塊があった。この塊の正体こそが、なまえである。
その時のなまえへの印象は、「サッチの左足」程度だった。右腕とも呼べそうな副隊長ほど親しくはなく、挨拶を交わす程度。同じ船に乗っているし、家族だと思ってはいるが、特別親しいわけでもない。遠い親戚のような間柄だ。
白ひげ海賊団の規模は大きく、船員の数も多い。自隊の人間ならともかく、他の隊の人間のことを気に留めることは多くない。だからマルコも、なまえの名前は知っていても、その人柄がどんなものか詳しくは知らなかった。
「よう、宴からとんずらして、こんなところで何してんだよい」
だから、なまえに声をかけたのは酒で酔っていたせいだったのだろう。いつもであればなまえの存在に気づいても気づかない振りをしていた。だというのに、酒の力とは不思議なもので。酔いで頭が回らないマルコは、ふわふわと楽しい気分のまま、なまえに話しかけていた。
「……オレより、マルコ隊長の方が問題じゃない? 主役がこんなところにいていいのかよ」
「いいんだよい。どいつもこいつも酒を飲ませたがるもんだから、ちっとばかし逃げてきた」
「なるほど。人気者はつらいな」
マルコの言葉に振り返った毛布の塊は、突然の声かけに驚くこともなく、すんなりと言葉を返した。表情の変化の少ない毛布とのポンポン交わされる言葉の応酬がなんだか妙に心地よくて、マルコはにんまり笑うとその隣に腰を下ろした。なんだかもっと、この毛布と会話がしてみたいと、思った。
「こんな離れたとこでなにしてたんだよい」
「マルコ隊長と一緒。酔いを覚ましに来たんだ」
ほら、となまえが振ったのはわずかに中身が残るグラスで、マルコはそれを奪い取って飲み干した。隣であーあ、なんて言葉は聞こえない振りである。なんてったってマルコは今日の主役だ。これくらい構うまい。
グラスの中身はレモン水だったようで、少し生温くはあったが、胸がスッとなるような心地の爽やかさだった。冷たければ尚酔いも覚めやすかっただろう。さすが四番隊、と思いながらグラスをなまえに返す。
「新しい、ちゃんとしたやついりますか」
「いや、いいよい。気持ちだけもらっとく」
「欲しくなったら言ってくださいね、作りますんで」
「おう、ありがとな」
そうして、会話が終わる。唐突に始まった会話は、終わるのも唐突だ。けれども訪れた沈黙は、決して不快なものではなかった。むしろ心地よいものだった。
そういえば、今更敬語だな、とマルコは思う。咄嗟の会話に敬語を使わなかったあたり、なまえもほどほどに酔っているのだろう。
「なんで、毛布なんか被ってんだよい?」
「寒くて」
「寒い?」
思わず反復してしまったのは、毛布を被るほどの寒さではなかったからだ。目的地の冬島は遠く、春島を去って数日。まだ暖かい気候のはずである。訝しむような声を上げてしまったマルコに、なまえは毛布の中に仕舞われていた手を差し出した。
「触ってみて」
「おお、?」
求められるままに触れると、調理のせいか火傷やその痕が残る少し骨ばった手のひらはひんやりと冷たかった。思っていたものとは異なる熱に戸惑うマルコの手の中から己の手を引っ張り出したなまえは、苦笑を深めるばかりである。
「オレ、冷え性で……マルコ隊長は、あったかいですね」
不死鳥だからかな。
そう、ホッとしたように微笑むなまえの顔に、マルコは暫し見とれた。思えばそれが、始まりだった。
マルコとなまえが仲良くなるのに、そう時間はかからなかった。10ほども年が離れているが、親しい友人のような関係には、なった。そもそもなまえの交友関係は希薄で、四番隊の隊員たち以外に積極的に会話する奴はいない。暇を見つけては食堂で働くなまえに声をかけていれば、なまえも段々とマルコに心を許すようになったようだった。
敬語はいらない、隊長と名前の後ろにいちいちつけなくていい。マルコの立場からすれば申し渡しのような頼みごとを、なまえは急には無理だと告げながら、徐々にではあるが叶えてくれた。それはまるで、なまえとマルコが対等になれたかのようで、嬉しい。
そんなマルコの変化に、一番先に気づいたのはサッチだ。
「うーわ、マルコ、まじ?」
「いきなり何だよい」
「えっ、うっそ無自覚? とりあえず今日はおれの部屋来いよ。飲もうぜ」
「おう……?」
悪友と二人で呑むのは珍しいことではない。けれど何かを含ませたサッチの言葉は、妙に胸を騒がせた。
「マルコってばなまえのことが好きなのか?」
お互いの隊の近況のことをお互い話しあって、しばらく。
ふとした沈黙の後、突然切り出された話題にマルコは飲んでいたエールを吹き出しそうになった。
「突然なんだよい」
「突然じゃねえから。お前めちゃくちゃダダ漏れだから。気づいてんの多分おれだけじゃねえと思うぜ?」
「気づくって」
「だから、お前がなまえのことを好きだってことだよ」
「え、はあ!?」
「こっちがはあ!? だっつーの。まじで無自覚かよ〜おいおいマルちゃ〜ん」
ぐしゃぐしゃと自慢のリーゼントをかき混ぜたサッチは、わざとらしく大きな溜息を吐いたあと、意地悪そうにマルコに笑いかけた。
「うちのなまえは可愛いぞ? あいつ、普段は酔わねえけど、四番隊だけの宴のときだけはしこたま酔うから」
「は、」
「飲んだらめちゃくちゃ甘えたになってな。おれさまの膝枕で眠っちまうことが何度もあって」
「……」
「涎垂らすわ、足は痺れるわでいいことひとっつもねえんだけど、あの寝顔を見るとそういうの全部どうでもよくなっちまうんだよなあ。いやあうちの秘蔵っこが可愛くて辛い。寝顔天使みたいに可愛い」
にまにまと笑うサッチの顔面に拳をぶち込みたい。胸のうちで渦巻く黒い感情は嫉妬で、苛立って仕方がないのはつまり、サッチの言葉は正しいという証明だ。
「くそ、お前の言葉で自覚するとか、めちゃくちゃ腹立つよい」
「おれだっておれの可愛い部下がお前のものになるとかめちゃくちゃ腹立つわボケ」
百戦錬磨のマルちゃんだもんね、と吐き捨てると、サッチがマルコが持ってきた上等なワインの瓶に口をつけて飲み干した。そのことに苛立ちは生まれない。つまりサッチは、マルコとなまえの関係を許容していると判ったからだ。
「なまえのこと、傷つけんなよな。あいつめちゃくちゃ繊細なんだから」
「ったりめーだろい」
基本無表情のなまえだが、その実、たくさんのことを考えていると、今のマルコは知っている。寒がりなのは、寂しがりだからだ。寒いと言えば誰かが寄り添ってくれる。そう知ってしまっているから。
「夜、寂しくなったら隊員の部屋に毛布持って訪ねるんだよ、あいつ。危ないから他の隊の奴らにはやるなって言ってあるんだけど、これからはお前んとこ行くように言っとくわ」
なんだと。
初耳のなまえの奇行にこめかみがピクリと震えたが、なまえはまだマルコのものではないので、この怒りは不当だ。不当だ、けれども。それとこれとは話が別で。
「――よろしく頼むよい」
告げた言葉は、自分で思った以上に、重く、低く響いた。
サッチのはからいで、夜になまえがマルコの部屋を訪れるようになったものの、二人の関係が発展することは未だなかった。それは四番隊の巧妙な連係プレーのせいでもあったし、年齢の割になまえが無垢すぎたせいでもあった。
こいつ、本当に30近いのか? 性欲とかねえのかよい? と危ぶんだが、実際はまだ四番隊に不慣れな頃、寂しさのあまり娼婦を何度も抱きに行ったことがあるらしいので、童貞ではないようだった。それもなんとなく腹立たしくて、マルコの独占欲は留まることをしらない。
自前の毛布に包まったなまえが、マルコのベッドの上で寝ころんでいる。狭いベッドの端に寄り、マルコがベッドに上がるのをじっと見つめている。その様子に、じんわりと体の芯が熱を持つ。マルコだって男だ。好きな相手がベッドにいて、興奮しない訳がない。
「ん」
己の横にマルコが体を倒すのを見守っていたなまえが、腕を伸ばす。その少し冷えた指先をマルコが絡め取ると、なまえは嬉しそうに笑う。
「へへ、やっぱ、マルコあったかいね」
その笑みだけで今は満足できてしまうのだから、恋は盲目というか、惚れた弱みというか。
いずれはそのすべてを奪い去るつもりでいる。それでも今は、たとえサッチに指を差されて笑われていようと、この幼く拙い関係で満足してやろうと、マルコは思う。
好きだとか、愛してるとか、そんな言葉では表しきれない愛情があると、教えてくれたなまえだからこそ。
瞬く間に寝入ってしまったなまえを抱き寄せ、その髪に口づけながらマルコは微笑んだ。
少しだけ肌寒い、ある夜の秘密事だった。
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