部誌11 | ナノ


てのひらのおんど



 寮生たちが寝静まった頃、山田が自分の仕事を終わらせて食堂に戻ってくると、この寮では見慣れぬなまえの姿があった。
 夕方頃にやってきたなまえは、主宰である氷室と込み入った話があるとかで、夕食の時間が終わっても二人は姿を現さず、山田の気付かぬうちに帰ったのかとばかり思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。

「なまえさん」

 椅子に座っているなまえからの返事はなく、規則正しい息遣いだけが聞こえている。目を瞑ったままのなまえは、無防備に寝顔を晒していた。

「なまえさん、風邪ひくぞ」

 秋から冬にかけて寒くなる季節には食堂に暖房が入るため、今のところ寒さは感じられないが、いくら暖かいとはいえ朝までここに居たら風邪をひいてしまうだろう。このまま寝かせておくわけにもいかず、山田はなまえの肩を軽く揺さぶった。しかし、なまえが目を覚ます様子はなく、どうしたものかと思いながら静かに隣へと座り、久しぶりに見るなまえの顔に目を向けた。

 山田より年上のなまえは、厳しい業界の中で揉まれながらも評価され、その業界を退いてもなお世界で活躍し続けている人だ。
 それが決して楽しいだけの道のりでなかったことを理解しているつもりだが、それを感じさせない余裕が常になまえにはあった。輝き続けることの難しさをその身を以て知った山田にしてみれば、なまえは憧れの対象そのもので、その生き方を羨ましく思わなかったといえば嘘になる。
 それでも卑屈な思いを抱えることがなかったのは、愚痴を一つも漏らさず努力を重ねていることを知っているからだ。
 大人としての余裕も、男としての憧れも、今の山田には何一つ手が届かない。

 きらきらと輝く舞台に立ち続けていたらと、大人としても、男としても、年上であるなまえには敵わないのかもしれないが、それでも少しは近づけたのではないだろうか。それを考えた所で無意味だとはわかっていても、近付きたいと思う気持ちだけは、今も変わらずにいる。

 山田は無防備に眠るなまえの手をそっと触れた。
 山田から触ったことがほとんどないなまえの手は、山田の手の平よりも少し大きく、少し触れただけでも温かい。

 なまえがスタイリストの仕事をしていた時には、仕事柄、なまえは山田に触れる事が多く、山田の服も、靴も、髪型でさえ山田に合うものを見つけては飾り立てるのがなまえの仕事だった。そして、きっと、間違いなく。

 あの頃のなまえの手は、山田だけのものだったのに。





「起きろ、山田」

 肩を揺さぶられて山田が目を開けると、少しだけ体勢を崩したなまえが目に映る。慌てて時間を確認すれば、どうやら三十分ほど時間が進んでいて、気付かぬうちに山田も眠っていたらしい。

「……あ、ごめん」

 触れていた手を慌てて離す。

「なんだよ、もういいのか?」
「なまえさん!」

 手を差し出しながら、からかいを含めたその言葉に山田が唇を尖らせると、なまえは小さく笑った。

「それにしても、ちょっと休憩するつもりだったのに思ったより長居したな」
「もう帰んの?」
「明日も朝早いんでね」 

 まだ眠そうに欠伸をしながら席を立ったなまえを追いかけるように山田も立ちあがる。思った以上に身軽で訪れたらしいなまえの持ち物は、脱いでいたスーツの上着とコート、そして小さなセカンドバッグだけらしい。
 玄関まで見送りに来た山田は、なまえの後姿をあまり見たことがないことに気付き、まじまじとなまえの背に目を向けた。

「なまえさん」
「ん?」
「今度はもっとゆっくり来てよ。あいつ等も、喜ぶと思うし」
「おう、そうする。じゃあ、またな」

 髪をくしゃりと髪を撫でられて、山田は目を丸くした。
 そんな山田を気にすることなくなまえは笑みを浮かべ、扉を開けると寮を後にした。静けさだけがその場に残り、寮の玄関で山田は人目を憚らずにその場に蹲る。

 髪を撫でられたのは、今回が初めてではない。
 なまえはよく山田に触れたし、それを嫌だと感じたこともないのだが、足りないと感じたのは今が初めてだった。
 なまえに対してそんな感情を抱いたことは一度もなく、山田は自分の感情に驚きが隠せなかった。
 なにせ、この感情に基づくものは、山田には身に覚えのあるものだ。

 今までからずっと、なまえから色んなものを与えられてきた自覚はある。
 甘やかしてもらっているし、可愛がってもくれている。それだけでもう十分な筈なのに、あの瞬間、なまえが山田に触れた時に思ったことは、「この手が欲しい」という感情だけだった。
 寝る直前の思考がそのまま残っていたのだとしても、なまえに対して思った感情は消えないし、自分の感情を間違える筈がない。

「……どうしたもんかな」

 名づけるならば、これは恋だ。
 憧れだと思い続けることも、この場で誤魔化すことも簡単だったが、誤魔化し続けるとなるとそう簡単にはいく筈がない。

 憧れていた同性に恋をするだなんて思うはずがなく、山田の途方に暮れた呟きは誰にも聞かれることはなかった。



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