部誌11 | ナノ


てのひらのおんど



「綺麗なノートだね」

私はノートを二つ持っている。一つは前々から持っていた、何か思いついた時にすぐに書き留める用のノート。なかなか年季が入っていて、元々アンティーク調だった表紙が更に趣深いものになっている。
東さんが指した“綺麗なノート”には程遠いので、此方ではないのだろうと東さんの視線の先を追った。

私の外出用の鞄から顔を出すようにはみ出ているノートは、革張り風の至ってシンプルな物だ。凹凸で絵柄を表現していて、細かな窪みが集まって一輪の薔薇が姿を現している。
それは初めて彼女から贈られた物だった。

「そうだろう。私も気に入っているからね」
「こっちはネタを書き留めているんだよね?そっちには、何が書いてあるのかな」

きっと東さんには、このノートが誰の手から渡った物なのかお見通しなのだろう。
普段はそこまで掘り下げるような会話をしないのに、笑みを浮かべたまま歌うように先を促す。

「監督くんのことだよ」

しかしこちらも、特に隠すような疚しい関係な訳ではないのだからと、堂々と答える。
そう、堂々と答えたつもりなのだが、東さんは「ふふ、可愛い」と返事をした。
いったい今のどこに可愛らしいものを見たというのか。
東さんはやはり、不思議な人である。

「そういえば、今日は監督、いないね」
「ああ、他の劇団の手伝いをするとか言っていたよ」
「残念だね、ほんとはデートの予定だったのに」
「…東さんはどうしてそんな事まで知っているんだい」

綺麗な笑みを浮かべる口元ばかりに目を向けていたが、少し視線を上げてみれば目は完全に私で遊んでいる悪戯っぽい目をしていた。
これは早々に撤退しなければなるまい。これ以上弄ばれると、これから湧く詩興の泉にも影響が出てきてしまいそうだった。

「オホン。…別にデートの予定はなくなった訳ではない。午前中に劇団の手伝いをして、午後からは私たちの時間だからね」
「そうなんだ。でももう昼だね?」
「むっ、確かに」

机の上に置いていたケータイを見るも、彼女からの連絡はまだない。
行こうと誘われた喫茶店は、その劇団が使う劇場のすぐ近くだ。丁度いいし迎えに行くとしようか。

「仕方ないね、迎えに行くしか」
「…本当に、何でもお見通しなのだね」

じっとりと見上げた私に、東さんは殊更にこりと笑みを浮かべて、「行ってらっしゃい」と答えになっていない言葉をかけた。

私は時々、彼女に本当に恋をしているのか不安になることがある。

「あっ、誉さん!」

照明を吊るす技量を持った人が居ないとかで駆り出された監督くんは脚立に登っていて、軍手をはめている手でふりふりと手を振っていた。
いつもより数倍高い位置にある顔が満開の花のような笑みを浮かべていて、自然とこちらも笑みが浮かんだように思う。

「何か手伝えることはあるかい」

舞台装置を組み立てるのも役者として大切なことだという精神の元、さすがに自身の所属する組の時は免除されるが、他の組の公演の時は持ち回りで照明や音響の設置、接続を担当している。
彼女に代わってやることも、何ら問題はなかった。

「いえ、後はこれを吊るだけですから!誉さんはそのまま待っていて下さい!」

溌剌とした声が上から降ってくる。
そう言われるともう何もすることがなくなってしまうから、「分かったよ」とだけ返事をして邪魔にならないよう壁に背を預けた。

他の劇団員は、遠慮しながらも好奇心を抑えられないのか、こちらを見てくる。
舞台の準備も後は照明機材のシューティングだけのようで、吊る作業をしている監督くんとあと二人、そして照明機材を操るオペレーターだけが忙しそうだった。

「すみません、中央スポット確認お願いします!」
「じゃあ私立ちますね!」
「上手のアンバー、舞台からはみ出てますけど、調整しましょうか?」
「はーい、行きまーす!」

誰よりも監督くんの声が通るように感じるのは、この中で知っている声が彼女しかいないからだろうか。
てきぱきと作業をこなしていく彼女は、率先して動いている。

中央のピンスポットの真ん中で立つ彼女を見て、以前酒の席で夢見心地な様子で呟いていた言葉を思い出した。
確か、誉さんは夢とかありますか、と聞かれた時のことだ。私は今のところ叶えていると言うと、まん丸な瞳が楽しげに細められたのをじっと見ていた。

「すごいなあ、誉さん。誉さんのことだから、きっと素敵な夢を叶えたんでしょうね」

私は、今が夢の途中だと言おうとしたけれど、監督くんの口が動くのに気づいて話すのをやめた。

「私、ずっと前から夢があって。いつか舞台設営も照明も音響も全部自分で用意して、役者もアンサンブルもオペレーターも全部自分でやりたいなって」

肩にのっている彼女の頭が、くすくすと笑うことで小さく揺れる。

「おかしいですよね。よく考えなくても、同時に自分が三人くらいいないとこの夢叶わないのに。…変な夢、持っちゃったなあ」

確かに変な夢だ。グラスに入ったワインを転がしながら、思う。
だけどどうしてか、どうにかして叶えられないものかと自分も思考を転がしている。

「…なら、いつか方法を考えついたら、一番に君に教えよう」

答えも出してやれない私に、彼女はぱっと満開の笑みを浮かべている。
その表情を見て、彼女の貪欲な願いを後でしっかり書き留めておかなければ、と思った。

「誉さん、お待たせしました!」

あの時とはまた少し違う、だが見ているだけで私まで元気になってしまう笑顔の持ち主が目の前に立っている。
ぼんやりとしていたことに彼女も気づいているのだろう、「詩興でも湧きましたか?」と聞いてくる。

「いや」
「?」
「君のことを考えていた」

見上げていた彼女が反射的に私から顔を背ける。しかし背けた視線の向こうには私の言葉をばっちり聞いていた野次馬が居たらしく、にやにやと笑って監督くんにハンドサインをおくっている。

「もうっ、誉さん、行きますよ!」
「ふむ、何故怒っているんだい監督くん?」
「怒ってません!」

顔を真っ赤にして、睨みつけている目は世間一般でいう怒った表情ではないのだろうか。
考え込んでいると、私が彼女の真意を測りかねていると分かったのか、未だ怒気の篭っている声をあげる。

「怒ってるんじゃなくて、嬉しくて照れてるんです!」

今度こそハンドサインでは満足できなくなった野次馬が指を口に突っ込んで口笛を鳴らした。

「照れはおさまったかね、監督くん」

劇場から失礼して、道を歩きながら尋ねる。
左を歩く彼女はその言葉にぴくりと肩を揺らすと、じっとりとした目で私を見上げた。
どうやら、まだ照れはおさまっていないらしい。

「…照れより怒りが湧いてきたかもしれません」
「私にはあまり先ほどの変わらないように見えるのだが」
「もう!誉さん!」
「すまない、君は怒っている。理解しているとも」

慌てて付け加えると、監督くんはつりあげていた目を丸くして、そして笑った。

「…すまない、やはり理解はできていないかもしれない。何で笑ったんだい?」

何故、先ほどまで怒っていると主張していたのに今は笑っているのだろう。
監督くんはとても面白いが、その分振り回されることも多い。

「だって誉さん、面白いんですもん」
「私が?監督くんじゃなくて?」
「…誉さん?」
「ふむ、怒っているの分かるよ」

そう言うと、彼女はまたにこりと笑った。楽しいと言うより、何かを諦めてしまったように思える笑い方だ。

「今日のところはこの辺にしておいてあげましょう」
「?君がいいなら、まあいいが」
「さあ、早くお店に行きましょう!誉さんに私のおすすめの紅茶、飲んでもらわなくちゃいけませんからね!これは任務です」

張り切る彼女が私の手を握って引っ張る。
私の歩幅を考慮してか、小走りになる彼女を見て、何となくきゅっと手を引き寄せた。

「誉さん?」
「君の任務は分かった。だがせっかくの休みなのだし、ゆっくり行こう。紅茶は逃げないよ。まあ少し待つかもしれないがね」

以前彼女が誘ったパンケーキの店は、それはそれは待った。
焼き上がりに一時間とは、世の中まだまだ知らない物に溢れていると思ったものだ。

「分かりました、そうしましょう!」

そして歩き出した彼女は、自分が大きく一歩を踏み出したことに気づいて、はにかむ。

「誉さんと歩くことが多いと、ついつい大股になる癖がついちゃっていけませんね。ゆっくり、ゆっくり…」

慎重に一歩ずつ歩く彼女を見ながら自分も歩く。
風が吹き、髪が口元に寄ったのでそれを払おうと指を頬に当て、気づいた。

…無意識のうちに笑っていたのか、私は。

きっと彼女を見て、愛おしく感じたのだろう。
少し冷たくなった気温、手のひらの温度が日差しより強く彼女の生を伝えてくる。

「閃いた!」

私の声に、となりで楽しそうな笑顔を見せてくれる温度がいる。
それがどうしようもなく温かかった。



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