部誌11 | ナノ


夏が終わるね



エアコンの音の向こうで、ぎぎぎぎ、と虫の声が聞こえた。誰かを呼ぶ声だ。自分ではない。
羽根を軋らせて、呼んでいる。
壁の向こうの、庭の様子を思い出す。緑が茂る庭の青臭いにおいを、思い出す。今日は、青々とした庭で一日中草むしりをしていたから、思い出すのは容易だった。もしかしたらまだ、身体に匂いがついているかもしれない。昼間は暑くて、蝉が鳴いていて、空には入道雲があった。真夏だ、真夏だと思っていたのに。聞こえてくる虫の声は、秋の夜のようだった。
ああ、そんな季節かとなまえはゆっくり、瞼を上げた。

和室用の四角のシーリングがぶら下がっているのが、ぼんやりとわかった。どこかの薄い灯りが差し込んできてぼんやりと照らしている。

ひどく喉が乾いている。古いエアコンは隙間だらけの室内を上手く冷やしてくれず、背中のあたりが汗ばんで嫌な感触がした。今何時だろうか。暗い、カーテンの向こうをぼんやり眺めながら、身体を伸ばす。こんなとき、焦ってヘタに動くと、足が攣るのだ。身体に異常が無いことを確認しながら、重い頭を押さえてなまえは小さく「みず」と言った。誰かに求めたわけではなく、自分のしなければいけないことを確認しただけだった。

「水で良いのか。麦茶があるぞ」

返ってくるはずのない返事にぎょっとして、なまえは飛び起きた。

「っ!? アンタ、いつからそこに?!」

差し込んでくる灯りは、半分ほど開いた襖の向こうのものだった。開いた襖に男がひとり引っかかって、暗い室内を覗くようにしていた。薄暗い、長髪、長身の男のシルエットが少し、怖かった。たしか、この部屋に入ったときになまえはきっちりと閉じたはずだから、この男が開いたのだ。ひょっとして、背中の不快感がこの男のせいではないか、とか、床にひっくり返って寝こけている顔を見られたらしい、ということに動揺する。
他人が出入りする屋根の下に暮らしていることに、まだ不慣れだった。

「今開いたところだ」

そう言って彼は声はかけたよ、とそういって首を竦めた。

「返事がなかったら、開くのか」
「日中、草むしりをしていたと聞いたから、熱中症で倒れているかもしれないと思ったんだ」
「……そう、ありがとう」
「開けて良かったな。室温何度に設定してあるんだ?」

男はそう言いながら手を彷徨わせる。なまえは「29度」と答えて立ち上がり、シーリングからぶら下がった紐を引いた。パチン、と数秒遅れて蛍光灯が灯る。点灯管が弱いのだ。

「暑いだろう」

白い光が灯ると、男の顔がよく見える。心配そうな、保護者みたいな顔をして、壁にかけてあったリモコンをちらりと視線をやる。

「いつも、この温度で寝てるから」
「昼間と夜とは違うだろ」
「それもそうか」
「気をつけてくれ」

そうする、と答えながらなまえは肩を軽くほぐした。やっぱり、手首のあたりからまだ草の匂いがした。

「それで。水が良い? 麦茶にする?」
「あー……、麦茶、寝る前に全部飲んじゃったからな。水しかないんだ。自分でやるよ」

水の準備をしに行こうとする男を遮ろうとした手を「いや」と男が遮った。

「買ってきたから、あるよ。コンビニで買ってきたからよく冷えてる」

彼はそう言いながら、目元を緩めて笑った。なんだか、くすぐったくてなまえは目を伏せた。


ガラスコップにつがれた麦茶は程よく冷えていた。もう一杯、と東に頼むのはおかしい気がして、ペットボトルに手をのばすと、逆に、彼が手を差し出す。その大きな手に、ガラスコップをのせながら、なまえはお願いします、と言った。

「食べるものも必要だろうと思って買ってきた」

ガラスコップになみなみにつがれた麦茶をこぼさないように口元に運んでいると、コンビニの袋から惣菜を出しながら、彼が言う。思い出したように腹がへこんだ気がして、なまえは素直に「ありがとう」と言った。

「おばさんに頼まれたから」
「東さんに頼むことないのに」
「おばさんには世話になったから、これくらいは当然」

なまえが、この家に住むことになって、およそ2ヶ月だ。元々はまったく違う都市に住んでいたなまえは2ヶ月前に、この三門市の外れにある古い民家へと越してきた。この家の主である「おばさん」はなまえの叔母だ。叔母は、2年前の近界民の大規模侵攻で夫と子供を失くしていて、なまえが越してくるまで一人で暮らしていた。
3ヶ月ほど前、叔母は庭の手入れの最中に転んで怪我をして入院して、その少し前になまえはボーダーからスカウトを受けていた。そんな奇妙なタイミングの関係で、なまえはこの家に叔母と住みながら大学に通い、ボーダーに入隊することに決めたのだ。
なぜかこの家の合鍵を持っている男は東春秋、という。叔母が怪我をしたとき、発見して病院まで送ってくれたのが彼だった。以前からこの家と親交があったらしい東は、ボーダーではなまえの先輩にあたっていて、大学も同じということで、公私ともどもお世話になっている。
今日は、叔母は友だちと一緒に温泉に泊まりで出かけている。夕飯はいつも叔母が用意してくれていて、世話をしに来たはずなのに世話をされているのが申し訳なかったりする。それが、休みの日まで他人に世話をされるとなると、落ち着かない。

「……えっと、何かすることって」
「座ってて」

なまえよりもこの家に馴染んでいる様子の東春秋が笑う。なまえの一番の誤算が、この東春秋だった。

叔母となまえは元々仲がいい。長期休暇中によく泊まりに来ていたし、叔母もよく遊びに来ていた。だから、彼女と暮らすことは何一つ心配していなかったし、彼女の寂しさを少しでも埋めることができれば、と思っていたのだ。
ところが、両親を説得して来てみれば、彼女のそばにはこの男が居て、叔母は少しも、孤独ではなかったのだ。逆になまえのほうが赤の他人で知らない人である東がいると居心地が悪くなってしまう。
それはあまりに子供っぽい感情だとわかっているから、態度に出すつもりはなかったが、馴れ馴れしくするのも違う気がして、なまえはいつも、少し困っていた。

「……東さんも一緒に食べるの?」
「そのつもりで買ってきた」

彼はそう言いながら、パックに入った唐揚げを皿にのせようとした。

「あ、それ、そのままでいいよ」

思わず手を出してなまえは皿と唐揚げを取り上げて、パックのまま食卓に並べる。驚いたような東になまえは「洗い物少なくていいだろ」と笑う。言ってから、彼はそんながさつな食べ方をしないのだろうか、と少し戸惑う。
叔母はすごく家庭的な人で、食卓にはいつもランチョンマットがあって、その上に彩り豊かな食べ物が並んでいる。彼女が居たらなまえもそんなことは言い出さなかったのだけれど、彼なら良いだろう、と思ってしまったのだ。
だって、彼の髪の毛は伸びっぱなしでだらしなくて、とても、そんなことが好きな人には見えなかったから。
失礼だっただろうか。そもそも彼は客人なのに、そんなことを思いながら「やっぱり乗せる?」と皿を見せると、東が軽く噴き出した。

「いや、洗い物は節約していこう」

目元にシワが少しだけ入る。自分とそんなに変わらない年のはずなのに、それを感じさせない柔らかい笑い方に、なまえは少し、安堵した。

結局、ほとんどをプラスチックの容器の上に並べて、二人で向かい合って割り箸でつつくことになった。目の前に皿が並んでいるよりもこっちのほうが東に似合っている気がして、失礼を承知でなまえは少し笑った。
赤の他人と、自分の家じゃない家でご飯を食べるのは、やっぱり、変な感じがする。

「そういえば、ボーダーのことだけど」

東がそう、切り出した。急に張りつめたみたいな空気になった気がして、喉が苦しくなってなまえは麦茶に手を伸ばした。

「入隊の日、決まった?」
「決まった。また正式に書類は持ってくる」

東が、そういう。視線は箸の先を向いている。東はよく、人を見ている。だから大抵話をするときは、目があって気まずいのだけれど、今は、視線があわなくて、大事な話をしているのに、となまえは思った。

本当はもっと前に入隊するはずでスカウトされたのだけれど、叔母さんのこととか、家が少し古くて、入院で開けている間に手入れが必要になっていたりとか、学校の編入のこととか、ボーダーの都合とか色々で延ばし延ばしになっていた。

「良かった」

ため息のように、なまえは言った。
何をしに、ここに来たのだろう。ずっとそう思っていた。最初は忙しくて思うヒマなんて無かったけれど、落ち着いてくると、段々そんな気になっていた。

「……後悔、しないか?」
「後悔?」

意外な、言葉だと思った。東はまだ、下を向いている。何を思っているのか、わからなかった。

「おれは、自分に出来ることを探してここに来たんだから。しないよ。自分で決めたことだし」
「……わかった」

歯切れのわるい東に、居心地が悪くなって、なまえは慌ててガラスコップを空にした。東がペットボトルに手をのばす前に、ペットボトルを取って、ガラスコップに麦茶を注ぐ。
ペットボトルのふたを締めて顔を上げると、今度は目があった。
妙な顔をしてる彼になまえは「東さん?」と声をかける。

「そういえば」

なんだか、変な顔をして彼が言う。

「……さっき、なまえ、オレのこと『アンタ』って呼んだよね」
「そうだっけ?」
「呼んだ」

口元を緩めて、ゆがめて、笑う。土砂崩れみたいに崩れる顔面を見ながら、なまえは唇を尖らせた。
こういうところが、不愉快だと思う。彼はブラックボックスが多い。

「……春秋でいいよ」
「は?」
「春秋って呼んで」

何がおかしいのか、笑いながら、彼はそう言った。



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