部誌11 | ナノ


熱中症にご注意を



ジリジリと、肌を灼くような、日差しの強い日だった。
そのひとは食べ終わったアイスキャンディーの棒を咥えながら、水遊びにいそしむ幼いクラウスを見守ってくれていた。

「パピー、はしゃぐのもいいけど、日射病だか熱中症だかになっちまう。そろそろ休憩しよう」

何代も続くラインヘルツ家の豪邸、その中庭にニホン製のビニールプールも持ち出してきた奇特な人間は彼くらいしかいまい。それくらい、安っぽさの漂うビニールプールは美しい夏の花々が咲く中庭には浮いていたし、彼のTシャツに短パン、ビーチサンダルというだらしない格好も浮いていた。麦わら帽子の下の顔はクラウスを気遣うものであると声色から察せるが、日差しの強さから来る影の濃さに表情自体は確認できなかった。

「もうすこし! もうすこしだけ!」

「その言葉をおれは何度聞いただろう……お前がそんなに水遊びを気に入るとは思わなかったよ」

ラインヘルツ家本邸があるドイツのとある都市では、近年まれにみぬ猛暑だった。通年では考えられぬその暑さに参るひとの数は多く、ラインヘルツ家で働く使用人たちも例外ではなかった。当主の意向から最低人員だけが働く本邸での欠員は、非常に深刻な問題だ。 本邸でラインヘルツ家の人間はクラウス以外におらず、クラウスの父も兄も諸外国に出ている。幼いクラウスはその幼さ故に何をするかわからないため、目を離すこともできない。しかし日常の業務はこなさねばならず、頭を悩ませたメイド頭に子守を申し出たのが、食客としてラインヘルツ家に滞在するなまえ・みょうじだ。
当主がどこぞから連れてきた出所もわからぬ青年は、ひっそりとラインヘルツ家で生活していた。自分のことは自分でやる主義だという彼の世話をすることがなかった使用人たちは、そういえばこんなひともいたわねと心の中で呟きつつ、居候の身としては甘えてばかりいてもいけない、というなまえの言葉に甘えたのである。

日系だという彼が幼いクラウスにと持ち出してきたのが、ビニールプールだ。
古くからあるラインヘルツ家本邸にはプールなどなく、本邸からあまり外に出ないクラウスがプールで泳いだこともない。水着すら持ち合わせていないクラウスは、日焼け止めをしっかり塗り、下着になまえから借りたTシャツ、麦わら帽子というスタイルで水遊びすることになった。はしたない格好だとわかってはいるが、お前の年齢での水遊びとはそういうものだとなまえに押し切られてしまったので、そういうものなのだろう。
強い日差しでビニールプールの水は早々に生ぬるくなってしまうが、なまえがどこぞから引っ張ってきたホースで冷たい水を振りかけてくれるので気にならなかった。

「なまえ、あともうすこしだけ」

「だめだ。水分補給も満足にできてないだろう。何も止めろっていってるんじゃない。休憩しろって言ってるだけだ。日陰で、冷たいジュース飲んで、少し休もう。そのあとまた遊んだっていいんだから」

「だめだろうか……」

「だぁめ。ほれ、休憩〜。日焼け止めも塗り直さないと。お前の肌は白いんだから、あとで泣きを見るぞ」

そうしてパカリとクラウスの被っていた麦わら帽子を取り上げると、なまえは乱雑にクラウスの頭を撫でた。

「やっぱり。熱を持ってる」

慌てたような声を上げたなまえがクラウスを抱き上げる。水に浸かっていたクラウスはびしょ濡れだというのに、それに構わず。
久しく抱っこというものを経験していなかったクラウスである。思わず高くなった視線に驚き、なまえの首に抱きつきながら言葉を失っていると、水遊びを中断させられたことに拗ねたと思ったのか、ほらクラウス、と視線を促される。

「魔法かけてやるから、機嫌直せ」

「まほう……?」

「そう。ほら」

水が出っぱなしのホースの口を、なまえが上に向ける。シャワーのように飛んでいく飛沫を眺めていると――そこに、小さな虹が生まれた。

「わあ……!」

「機嫌直ったか? じゃあ美味しいジュース飲みに行こう」

「なまえはまほうつかいなのだろうか、どうやってにじをつくったのだ?」

キラキラしたと瞳を輝かせたクラウスに苦笑したなまえは、ジュース飲んだら教えてやるよ、とだけ告げて中庭から本邸に飛び込んだ。
ホースの水を出しっぱなしなこと、体を拭かなかったせいで廊下が水浸しになったこと、クラウスが軽い熱中症にかかり、寝込んでしまったことなど、あとでメイド頭にこっぴどく怒られたらしいが、なまえ特製のはちみつレモンを飲んだ後眠ってしまい、その後ベッドに何日か籠らざるを得なかったクラウスがその事実を知ったのは、何年か経ってからのことであった。





「いやあ外は暑いぞ、クラウス」

曇り空ばかりのHLが猛暑に見舞われたのは、堕落王のせいだったか、それともHL独特の怪奇現象のせいだったか。
ジリジリと肌を灼く日差しは強く、クラウス・V・ラインヘルツはクーラーの効いた部屋でプロスフェアーの本を読んでいた。同僚のスティーブンの言葉で、ようやく顔を出した太陽を何年ぶりかに見たことに気付いたのだった。

こんな暑い日には、思い出す。
あの幼く、幼気で、幸福だった日々を。

ラインヘルツ家の食客だったなまえ・みょうじは、クラウスが寄宿学校を卒業したと同時にラインヘルツ家を出た。日系人だからか、童顔の彼は成人済みだと何度も主張していたけれども、ずっと青年のままだった。幼いクラウスが長期休暇で帰省する度に「おかえり」と迎え入れてくれた彼は、ずっと――使用人が不思議に思うくらいには、変わらなかった。十数年という時が経過しても、白髪一本、皺ひとつもないまま。
それでもクラウスは構わなかった。気づかない振りをしていた。そうすれば彼はずっとそばにいてくれると、思っていた。思って、いたかった。

幼いクラウスが成長し、年齢に見合わぬ体格を手に入れても、かのひとはクラウスのことを「パピー」と呼び続けた。仔犬みたいだと笑ってくれた、初めて出会ったときの呼び方のまま、クラウスを子供扱いし続けてくれた。
大きな体格は、時にクラウスに「大人らしくあること」を強制した。それは滅多に会うことのない父や年の離れた兄も同様で、甘えた仕草を見せれば「子供じゃないんだから」とすぐ口にした。体が大きく成長しただけで、クラウスの心は、まごうことなき子供であったのに。

クラウスのことを正しく子供扱いしてくれたのは、なまえと本邸の使用人たちだけだった。悪戯さえせず大人しい子供だったクラウスを悪戯に誘ったのはなまえだったし、悪戯したなまえとクラウスを年齢や身分など関係ないとばかりに叱ってくれたのは、本邸の使用人たちだった。
クラウスにとって、心を寄せる家族とは、なまえと本邸の使用人たちだったのだ。

寄宿学校の卒業式に来てほしいというクラウスのおねだりは、苦笑とともに拒否された。その代わりに届けられたのは、まるで本物と見紛うような、造花の花束。
訝しんで花束の意味を訊ねようと本邸に戻り、なまえの部屋を訪れたときには、なまえはもう屋敷にはいなかった。

その時のクラウスの心情は、筆舌にし難い。
邸内をあちこち探し回りながら、様々な感情に襲われた。純粋に哀しかったし、裏切られたと思った。別れの言葉ひとつなく去ってしまったなまえを恨んだし、彼にとって自分はその程度の人間だったのだと嘆いた。

彼を、なまえ・みょうじを、愛していた。その愛の形がどんなものかクラウスは定めなかったし、なまえも確認したりはしなかった。クラウスはなまえを家族だと思っていて、きっとなまえもそうだった。あの笑いあった日々は、決して嘘ではなかった。そう、信じたかった。

残されたクラウスが、同じく残された季節も色もてんでばらばらなその花束に、何か意味があるのではと考えるのは当然だった。数日もの間嘆き、悲しむクラウスのことを予見していたのか、枯れない造花の花々の意味をクラウスは追い求めた。
答えは本邸の蔵書室にあった。ピシリと揃えた本棚で、ひとつだけ歪に飛び出た一冊の本。案の定それは花言葉の本で、クラウスは造花と本の写真を確認しながら情報を擦り合わせていく。そうして今度こそ、クラウスの心は打ち砕かれた。

花束にされていたのは、ガザニア、ゼラニウム、シオン、スイートピー、そして――コルチカム。

あなたを誇りに思います。
君ありて幸福。 君を忘れない。
優しい思い出。
――私の最良の日々は過ぎ去った。

希望はないのだと思った。これは別離の手紙だ。確かになまえとクラウスは家族だった。なまえもそう思ってくれていた。けれど今はもう、そうではないのだ。なまえによって、家族は分かたれてしまった。

嘆くあまり、いよいよ体を壊しそうになったクラウスを見かねてか、父が執務室に来るようにと託けた。
使用人に支えられてようやく執務室のソファに辿り着いたクラウスは、なまえよりも家族らしい関係を築けていない父親を力ない瞳で見上げた。そこにはおそらく、分かりやすい絶望が滲み出ていた。

「久しいな、クラウス」

威厳をもって語りかけてくる父の言葉を、クラウスは呆然と聞いていた。父親らしいことを今まで一度もして来なかった父だ。今更何を、とも思ったし、初めて父親らしいところを見たな、と思った。この時のクラウスにとって、全てが他人事めいて見えた。なまえがいなければ、もうなんでもいい。どうでもいいのだ。

父は本当に今更なことに、父親らしいことをしてこなかったことや華族として接する時間がほぼ皆無だったことを謝罪した。長々としたそれらの言葉は、クラウスの心にはちっとも響かなかった。ぼんやりと聞き流していると、ようやく本題に入った。

「お前には話していなかったな。なまえのことだ」

「!」

なまえの話題になった途端、生気を瞳に宿らせたクラウスに、父は苦笑した。そうして、語る。クラウスの知らない、なまえの話を。

「お前も気づいていただろう。いつまでも変わらない、なまえの姿に」

それはな、なまえ・みょうじという人物が、人間ではないからなのだ。
父の言葉は荒唐無稽で、それでもクラウスは真剣に聞き入った。その情報が嘘でも冗談でもないのだと、父の表情が伝えていた。

ニホンという国で生まれたなまえは、怪異に出会った。吸血鬼と呼ばれるそれらは、悪戯になまえに噛みつき、その眷属に仕立てあげた。なまえは望まず、不死の化け物と成り果てたのだ、と。

まるで夢物語か何かのようだ。 けれどきっと、紛れもない真実で、だからこそなまえはラインヘルツ家から姿を消した。十数年も変わらない容姿に、誰もが訝しみはじめたからだ。

「なまえは、己を化け物にした吸血鬼を恨んだ。眷属に成り立ての頃は主たる吸血鬼の言うことに従わざるを得なかったが、徐々に力をつけ、そうして己の命を投げ出すように、主を弑した。けれども主を弑するために蓄えた力は強く、いつしか主なくとも存在できる程度には強大だったのだ」

【血界の眷属】という存在そのものを、なまえは憎んだ。だからこそ己のような人間を生み出すまいと、人間に荷担した。

吸血鬼が吸血鬼を、【血界の眷属】を殺す。弱点を人間に伝え、長い間培った【血界の眷属】や異界の化け物を弑す方法を、躊躇いもなく人間に教え込んだ。それらの全てが己に向かってくる未来を、恐れることもなく。

「わたしやお前の兄は、彼の弟子なのだよ」

「……では」

「そしてお前も、彼が我々に伝授してくれた秘技を学ぶことになる。残念ながら、彼自身ではなく彼の弟子から教わることになるだろうが」

お前にはどの系統の血法か相応しいだろうね。

父の言葉はつまり、彼が人間に伝えた秘技が、一つや二つではないということだ。それらを生み出せるほど長い間、彼は生きてきたのだ。
愕然とするクラウスに、父は優しく微笑みかけた。

「学びなさい、クラウス。強く在りなさい。誰よりも強く。恐らくはそれが、彼への一番の近道だ」

決意するのに時間はかからなかった。少しでも早く彼に追いつくためには、弱ってなどいられない。
瞳は爛々と輝き、唇は笑みの形に歪む。 進むべき道がどれほど困難なものであろうと、その先に彼がいるのであれば突き進むだけだ。

そうしてクラウスは秘密結社ライブラの一員として、HLに辿り着いた。よすがとしていた造花の花束はいつかの戦いで壊れてしまって、クラウスは花を育てる人になった。コルチカムだけは、決して育てることはなかったけれど。

「そうだな、スティーブン。とても懐かしい――暑い一日だ」

「へえ、何か思い出でもあるのかい」

「あるとも。とびきりのものが」

「成る程、興味深いね」

外気温との差にか、大量に流れる汗を拭うスティーブンを見やり、クラウスはギルベルトがいつの間にか用意してくれていたらしいアイスティーを彼に差し出した。

「長くなるから飲むといい」

「ありがとう」

クラウスの手からスティーブンの元へアイスティーが渡され、グラスから雫が伝う。
ぽたり、雫がクラウスの机に落ちた瞬間、ライブラの扉が開かれた。

「やあパピー! こんな暑い日は水浴びだ! 熱中症をやっつけろ!」

そこには暑さにやけくそになったらしい愛しいひとが、かつてのようなだらしない格好で笑っていた。



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