部誌11 | ナノ


熱中症にご注意を



 夏の暑さをしのぎ、冬の寒さをやわらげる。高度経済成長期には三種の神器と呼ばれたクーラーをはじめ、現代日本で室温を調節するエアコンは、人間らしい生活のために必須と言ってよい文明の利器となっていた。いまや生活保護世帯にも保有が認められているそれは、健康で文化的な最低限度の生活を送るために、もはや人類に必須といえるだろう。エアコンの必要性を説いたところで結論を述べると――ボーダー本部の空調設備が、壊れた。

「無理だ、死ぬ」
「死なない死なない」
 ワイシャツを二の腕までたくし上げ、ネクタイは早々に取っ払い、皺になるのも気にせずスラックスを膝まで捲った格好は、かろうじて社会人としての体裁を保っている。今日はもう外出の予定も来客の予定もない。ただ、着替えを持っていないという理由でおれはスーツの枷から逃れられずに、籠もる熱気に耐えていた。氷水を張ったバケツにふくらはぎまで浸し、上半身はぐったりとソファーに横たわる。この部屋に来てから何度目かわからない泣き言を、おれの友人は軽い調子で否定した。
 倉庫から引っ張り出した扇風機の風に当たりながら、おれは湿った目蓋を重苦しく持ち上げて、反対側の応接ソファーに腰掛ける東春秋を睨む。
 奴は蒸し風呂のような室内に堪え忍ぶおれとは打って変わって、普段と何の変わりもない、涼しい表情でタブレット端末をいじっていた。タブレットなんて、いまこの状況で触ろうものなら電池の発熱が灼熱地獄に拍車をかけるに決まっていて、想像するだけでぞっとする。
 ソファーとの接地面に汗が溜まって不快で、しかし体を動かすことすら億劫なものだから、おれはじっとり蒸れる片側に耐えるしかない。そんなおれを一瞥して、汗一つかいていない東はまた視線を手元に戻した。
「かわいそうに。できるものなら俺が代わってやりたいよ」
「ウワ、すっごい棒読みぃ」
 せめてこっちを見て言ってほしい。恨みを込めた視線を送ると、目を上げた東が困ったように肩を竦めた。しかしおれは知っている、おまえがおれを見て面白がっていることを。
 友人に羨望の眼差しを向けつつ、おれはじわじわと侵食する暑さに呻いた。マジでこれ、早くどうにかしないと死人が出る。おれが犠牲者一号になる自信ある。吐く息の生温かささえ倦怠感を増幅させるようだ。空調設備の修理点検中に、技術部がトリオン技術を用いた消費電力削減試験だかなんだか余計なことをして、空調管理システムの大元をおしゃかにしたと聞いたのは午前中のこと。技術系のことはさっぱりわからないが、一刻も早く直してもらわねば本当におれが死ぬ。人と物の多い総務部よりはマシかとやりかけの仕事を持って東隊の隊室に逃げてみたものの、空調の故障なんて意に介していない友人と顔を付き合わせる羽目になった。
 同じ部屋に居ながら、なぜここまで差があるのか。それはもっぱら、トリガーを所持と非所持を理由とする。
 現在おれの目の前で先日のランク戦の録画を振り返っている東は、トリオン体に換装している。トリオン体ならば任意の感覚の操作は容易く、奴はしれっと暑さ寒さを感じないように設定を調整していたのだ。本部内でトリガーを持っている人間は、いまほとんど換装しているはずだ。防衛隊員の子どもたちや、実験用トリガーを保管しているエンジニア、防衛隊員を退いて本部運営に回った者。彼らは空調がうんともすんとも言わなくなろうと、不利益を被ることはない。
 しかし、おれのような本部職員は、トリガーがないのである。過去に換装したこともないし、今日も換装できないのである。換装できないということは、太陽が燦々と降り注ぐ真夏の本部内、窓のない堅牢な要塞の内部で暑さに耐えるしかないということ。日頃の忙しさの上に過酷すぎる労働環境が重なって、職員が次々と三門市内の病院に運ばれていった。あまりの状況に、トリガー持ってないひと代表根付さんが、トリガー非所持の職員に帰宅許可を出したくらいである。ならばさっさと帰れればいいのだが、世知辛い世の中だ。仕事が積み上がっていて帰れない。
 停電になったわけではないので、冷蔵庫や扇風機が使えることが救いだった。おれは東隊隊室にノートパソコンと扇風機を持ち込み、クーラーボックスに保冷剤と冷水を詰めて避難した。結局仕事はほとんど捗らないものの、ここならば人目を気にせず薄着になれるし、足をバケツにつっこめるし、泣き言も恨み言も言える。
「鬼怒田さん早くどうにかして……」
 この場にいない技術部長に助けを求めたが、首に当てていた保冷剤がずるりと滑り落ちただけだった。溶けてぶよぶよになったそれがソファーの上をじんわり濡らしていく。
「昔から夏は苦手だったな、おまえ」
「いや、こんな状況、誰でも参るだろ。ちょっと換装解いてみろよ」
「遠慮する」
 つれなく答えた東は、おもむろに立ち上がり、クーラーボックスから新しい保冷剤を取り出した。何をするのかとぼんやり眺めているうちに、奴がすたすた歩み寄ってきて、上半身を横たえたおれの眼前にひざまずく。
 暑苦しい長髪の男が視界いっぱいに映った。普段のおれなら邪魔だ暑いと追い払っただろうが、いまはもう、腕を動かすエネルギーすら口惜しい。
 東は、溶けて意味を成さなくなった保冷剤を取り除いて、おれの首筋にキンキンに冷えた新しい保冷剤をぴとりと当ててくれた。頸動脈に直に当てられた氷に背中が竦むも、すぐにその快感に「あ〜」とだらしない声が出た。冷やされた血が頭に巡っていって、すこしだけ思考の靄が薄くなる。
「あつい……」
「……裸にならなかったことは誉めてやるから」
 何度目か分からない三文字を呟くと、東の苦笑いがすぐそこに見えた。この友人は、おれの倫理観を何だと思っているのだろう。そんなことをしたら不審者と見なされ即通報。暑さであたまがやられたかわいそうな人間になってしまうではないか。
 文句を言おうと口を開いたとこで、東の手のひらが額にあてがわれた。トリオン体の手のひらはひんやりと冷たくて、藁にも縋りたいおれは、その指先をありがたく享受することにした。この適度に冷たいトリオン体に免じて、苦言は飲み込んでやろう。
「あずま、あつい」
「うん、あついな」
 よしよし、と額や頬を撫でる指が、殺気立った気分を和らげてくれる。おれの意識があるうちに空調が復活しますようにと、動きの鈍くなってきた頭で切実に願った。



prev / next

[ back to top ]



「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -