部誌11 | ナノ


雨夜



敷石が濡れる。水溜りを波紋が揺らす。どこかの紳士の革靴が色を変えている。誰かが差す傘が、ばらばら、と雨粒を弾く音がした。視線を上に向ける。街頭の周りを、流れ星のように雨粒が筋をえがいていた。その向こうの空は、いつも通りの何もない、暗闇だ。雨のない日でも、この街はいつも霧に覆われて、星ひとつ見ることはできない。
昔は、こんな大都会の真ん中でも一等明るい星くらいは見えたのに。
3年前。すべてが変わった日だ。世界も大きく変革したし、この街も変貌を遂げたけれど、なまえにとって一番変わったのは、自分自身の人生だった。それ以外のことには興味がない、と言ってもいい。なにしろ、なまえは自分のことだけで精一杯なのだ。
世の大半の人間はそうだと思う。自分の人生に精一杯で、その他のことを考えるとしたら、それは恋人だったり、家族だったり、両の手を広げて届くくらいのものだろう。
違う人間も居るだろう。そうじゃなかったら、このヘルサレムズ・ロッド、元紐育がこんな平気な顔して存続しているはずがない。
この街は、危ない。
紐育だったころから、こんな道の脇にぽっかりと奈落の底みたいな顔をした路地がぞろぞろと生えた道を女性が一人で歩くには向かないところだってあった。
でも、今はその危険の度合いが違う。
何かの死体がころっと転がっているくらいでは、そうそう心を動かしていられない。人の命が中国の市場で釣られた鶏並みに安いのに、殺されるかもしれない者たちは平気な顔をして日常を謳歌する。
普通じゃない。
“こわがり”のなまえには、彼らが平気な顔をして歩いている理由がわからない。いつ、どんな理由で死ぬか、誰に狙われているか、わからないのに。

「こんばんは、また会ったね」
目の前に、男が立っていた。顔に大きな傷のある、背の高い痩せ型の男だ。紺色の傘を差している。痩せているけれど、身のこなしは普通ではない。油断のない立ち方に、少し警戒してなまえはまばたきをした。
「……ああ、ザップさん」
「……そう、覚えていてくれたかい?」
「私、一度会った方の顔は忘れないのですよ。まして、三度目ですからね」
「四度目も覚えていてくれるかな?」
「一度会った方の顔は忘れない、と言ったでしょう?」
「そうだった」
彼の返答になまえはかすかな違和感を感じて、自分の姿を確かめた。イエローのローヒールの靴。それから、ブラウンの巻き毛のウィッグ。色鮮やかな花がらのワンピースに、雨粒が模様を付けていく。
「こんな雨の夜に、傘もささずに一人でどうしたんだ? 女性一人では危ないじゃないか」
少し、非難するような声でザップがとがめる。
「ええ、貴方に会えてよかった」
「家まで送ろうか。家はどこに?」
「この少し先。あなたが居るなら、こっちを通ったほうが近道ね」
「じゃあ行こう」
なまえが指した路地の先をちらりと見て、ザップは頷いた。なまえに何気なく傘を差し掛ける仕草が、紳士的で彼はどんな人だろうか、となまえは考えた。ひとの皮をかぶったとんでもない者がこのヘルサレムズ・ロッドには……多分、紐育にも……ゴロゴロしているが、なんとなく彼はそんな人じゃないという気がする。
そして、首の後がチリっと電気が走るみたいに警戒を要求する。
ザップ、というのは偽名だ。なまえはそう思った。自分の名前にあんな反応をかえす人間はいない。前に呼んだときは十分に名前を呑み込んでいたようだったけれど、今日は別のことに夢中で忘れていたようだった。彼のような人間も、そんなミスを犯すことがあるのか。すこし、意外だった。
なまえの命を幾度となく救ってきた警鐘を、なまえは無視をした。

横から吹きつける雨ない分、路地を歩くのは楽だ。もちろん、傘を差して二人並んで歩くことが出来る道に限られるが。その点このルートは問題がない。
「貴方は、あんなところで何をしていたの」
なまえは、ひとつ、疑問を投げかけた。
人気のない小さな十字路に小さな蛍光灯が灯っている。都市計画に含まれていないだろう十字路を眺めながら、自分の歩調で歩く。ザップは、なまえの歩調に合わせて歩いてくれる男だった。
「……君を待っていた、っていうと信じるかい?」
「そういうの、他の女性は喜ぶの?」
「君は喜ばない?」
「さあ、どうかしら」
スポットライトのように、雨が降り注ぐ十字路に足を踏み入れる。ザップが、足を止めた。
「……君に、かえして置くものがあるんだ」
ザップはそう言いながら、ポケットに手を入れた。なまえは目を細めた。
「これ、君がおとしたものだろう」
「……なんだ、貴方が持っていたの」
ザップが持っていたのは、小さなジッポだった。男性モノだとひと目でわかるデザインだった。これを、なぜなまえが落としたと思ったのか。なまえは疑問に思った。
なまえの女装は完璧なはずだった。
「君のポケットから落ちたのを拾って、返しそびれていたんだ」
「ひとから貰ったものなの。見つかってよかった」
銀色のそれを受け取ろうとした手を掴まれて、なまえは眉を顰めた。
首の後ろが痛いくらいに不愉快だった。
「……どうしたの」
「君が、これが自分のものではないと言ってくれることを期待していた」
「嫉妬かな」
「……わかっているだろう」
傷のある頬が形を変える。唇がゆるりと曲がった。
「そうだね」

刹那、蛍光灯が割れた。冷気が走る。なまえは真上に跳躍した。ザップを道連れに、なまえの身体はどこかの二階の窓枠に手をかける。
鉛玉が跳ねる。紺色の傘が、穴だらけになっていく。
窓枠を掴んだ右手が、バキバキと凍った。
「へぇ、面白いことするね」
なまえは笑う。暗闇に生きる人間には、暗闇のほうがよく見える。なまえはそう知っている。ザップが驚愕に目を見張った。
凍った右腕は、一振りで正常に動き始める。地面に落ちて蜂の巣になるその前になまえは糸を放った。
ギャア!という悲鳴が聞こえて、銃声が止んで、なまえとザップは凍った水溜りの上に着地した。足が右手のように凍っていくことはないようだった。
無言でなまえを睨むザップを無視してなまえは銃を持っていた男に近づいた。ザップから受け取ったばかりのライターを灯して、なまえは顔を確かめた。首が切り裂かれている死体の男は、見たことがない顔だけれど、狙われる原因には心当たりがある。
「……通報する?」
「……いや、それより、」
困惑した様子のザップになまえは首を傾げて、それから自分の服が大きく裂けていることに気づいた。凍ったときだろうか。呆れた右腕だ、となまえは継ぎ足された自分の右腕を見て、溜息を吐いた。
「その、腕は」
「……知ってるんじゃないか」
くる、と振り返ると、ザップが視線を逸らす。彼の視線を辿って、胸のあたりまで大きく服が裂けていることに気づいた。
「……これを着てくれ」
そう言いながらザップが彼の上着を差し出した。自分を殺そうとしていた男のすることには思えない。
あのとき、ここに転がっている男が現れなければ、ザップは確実に自分を殺すか、捕縛していた、そんな気がした。

「……昔、紐育に、人間の身体をバラバラにして吊るす連続殺人事件が起こったのを知っているか」
「ああ、昔、ニュースで見た」
昔は、そんな殺人事件をセンセーショナルにかきたてて、特集番組が組まれていた。今時はそんなこと噂話にしかならないと、なまえは思う。
「この、君のライターについた指紋と、その事件の犯人だと思われる指紋が、一致した」
「どうして調べたか、聞いていい?」
どこかの、ベランダの下が、良い雨よけになっていた。ちょうどよく、蛍光灯が灯っている。家に帰って、店に行って話すような話題ではないことをふたりとも承知していた。
「……偶然、だ」
「わたしを探してくれたんだと思ったんだけど」
「……じゃあ、そういうことにしておいてくれ」
本当に偶然なのだろう。偶然で指紋を照合するようなことが起こるなんて、なまえはそう思いながら少しだけ笑う。その犯人だと知って自分を探して捕まえに来るのだから、そういう仕事についているのかもしれない。ありあえないことじゃない。この街に普通の人が居るとしたら、そういう身分のある人である可能性が高い。周囲を凍らせるなんて異能を使う人間が公務員をしているなんて思えないから、探偵とか、そういうものだという可能性もある。
「多分、この腕がその犯人のものなんだと思うよ」
「……その腕は、どうしたんだ?」
「三年前、あのときに腕が取れてね。つなぎ直してくれる変な医者が居たのは良いんだけど、別人の腕をつながれちゃったんだ」
「……つながるのか?」
「偶然にも、形も太さもよく似ていたらしくてね。違和感なくバッチリ繋がった。つながり過ぎって、くらいにね」
ザップが押し黙る。
「この腕が繋がってから、おかしなことにね、雨の夜になると徘徊したくなるんだ。おまけに、4回目に会う人間の顔は覚えられなくなった……君の察しの通りさ」
なまえは、女装して徘徊したくなる、という部分を意図的に避けた。彼が自分を女性だと思っている分にはそのほうが好都合だと思ったのだ。
「……でもね、ザップ。わたしは最近起こった、バラバラ殺人事件とは無関係だ」
「……ザップじゃない」
彼が言った。知っていた、と返すかどうか、少し迷って、なまえは口を閉ざした。
「……スカーフェイス、と呼ばれてる」
「じゃあ、わたしはオッド・アームとかどうかな」
「……なまえ」
「ねえ、スカーフェイス」
迷子みたいな目をしていると思った。
「……本当に、わたしのことを信じるつもり?」
彼は、雨音にかき消されそうな声で「ああ」と小さくつぶやいた。



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