部誌11 | ナノ


わたくしごと



夕焼けに染まるロンドンの町並みを眺めながら、なまえはシャツのボタンをひとつ、外した。とても暑い季節だ。その中では比較的マシな気温らしい、けれどそれでも暑いものは暑い。
この暑さも、久しぶりで懐かしい、となまえは思う。
古めかしい街の中に、寄生虫のように新しいものが這い回る奇妙な街だ。なまえがこの街に住んでいた頃と変わらないところと変わったところがパズルみたいに組み合わさって、奇妙な印象をなまえに与える。
そう、見えるのは何も街のせいだけじゃないかもしれない。なまえの変化がそうさせているのかもしれない。
「あ、あった、アレか」
目当ての看板を見つけて、なまえはほっと息を吐いた。見つからなかったらどうしようかと思っていたところだった。なにせ、もうすでに予定時間を過ぎている。待ち合わせの相手は少し、小煩いところがあるのだ。
沈みそうだった足が少し軽くなったような気がして、なまえは街角の小さなパブに駆け寄って行った。
バーカウンターの向こうには、ずらりと酒瓶が並んでいる。その前にコミックに出て来るようなずんぐりむっくりの男が座ってグラスを拭いている。近くに住む老人や、労働者がテーブルを挟んで笑い合う。その間には酒があって、フィッシュアンドチップスがある。隣の部屋で、一段が楽器を奏でている。軽快な音楽にあわせて、笑い声が高くなる。
良いパブだ。どこにでもあるようで、なかなか出逢えない空間。
そこに、この場所が似つかわしくない男が一人、カウンターに座っていた。
「や、久しぶり」
なまえが手を上げると、その男はむすりと顔を顰めて、遅いと言った。
長髪に、暑苦しいほどに堅苦しい服装の、男。眉間にはシワが深く刻まれている。昔はそんなものなかったのに。そんなことを思いながら曖昧に笑うなまえに、男は責めるように続けた。
「誘ったのはそっちだろう」
「時間と場所を指定したのは君だろう」
別の用があったのだと、そういう意味を込めて微笑んで見せる。彼は、表情を動かさなかった。それがどうしたのだ、という顔でなまえを見上げている。なるほど、彼も変わったらしい。となまえは思う。変わったのは見てくれや名称だけではなかったのだ。
まさか君がこんなところを知っているとは思わなかったよ。いい場所だね」
話を変えるようになまえが言うと、彼は「ああ」とだけ言いながら皿に盛られたフィッシュアンドチップスをつまみ上げた。脂が滴りそうな揚げ物を、彼が食べているのは少し、違和感がある。さして美味しそうに食べているわけでもないのが、この店とこの男の関係を示しているようでおかしかった。
なまえはとりあえず、バーカウンターの男に向かって「これと同じものを」と注文した。なまえはあまり、酒のことには詳しくない。オススメを聞いて注文しても良いが、トンチンカンな注文をして、特に興味があるわけでもないだろうに、なぜか雑学をよく心得ているこの男に薀蓄を垂れられるのは避けたかった。
酒の話をしに、わざわざ海を渡ってロンドンにやってきたわけではないのだ。
泡のないぬるいビールが目の前に届く。グラスを手に取ったなまえの前に来るように、隣の男がするりとフィッシュアンドチップスの皿をずらした。
「ありがと」
軽く返事をしながら、なまえはまず、ぬるいビールを飲んだ。変わった味だ、と、飲みなれた味ではないビールをなまえはそう評して、分けてもらった脂たっぷりのポテトをつまんだ。
「呼び出して悪かったね、ロード・エルメロイU世」
茶化すようになまえがそう呼ぶと、今度はあからさまにロード・エルメロイU世と呼ばれた男は顔を顰めた。
「いきなり帰ってきて、何の用だ」
呼び方を咎めたりはしない。彼は、その名で呼ばれることを受け入れているのか、それとも何かをいうだけの興味をなまえに対して持っていないのか。多分、両方だとなまえは思った。
「君に知らせたいことがあって」
「なんだ、また、困り事か」
「最近はそういうことはないんだ。残念なことに」
「それは良かった。そうそう面倒ばかり持ち込まれても困るからな」
悪態をつく彼に、なまえは笑う。昔はこうではなかった。
もっと、もっと、気安く、ふたりで、間に冷めたコーヒーと文献を挟んで、時間を忘れて話し込んだ。
昔の話だ。なまえと彼がまだ「エルメロイ」の下で学んでいた、そんな時代だ。
なまえは魔術の世界から、逃げた。
それだけの話しだったが、それがすべてだった。
逃げると言ったなまえを、彼は「裏切り者」と罵った。
喧嘩別れのように、決別するはずだった。だけれども、色々な面で支援を必要としたなまえを手助けしてくれたのは、彼だった。
「で、なんだ」
面倒くさそうに、彼はぬるいビールを煽った。
「結婚するんだ」
噎せるだろうか。と、なまえの期待に反して、彼は冷静にグラスをコースターの上に乗せた。期待はずれだとなまえは思う。
「……相手は?」
「普通の子だよ。普通の会社で事務員をしてる」
「……そうか」
興味なさそうに、彼は「それでわざわざ、帰ってきたのか」とぼやいた。わざわざ逃げるように去ったロンドンに、わざわざ帰ってきた理由はそれだけではなかったけれど、ほとんどの理由は、この言葉を聞いた彼が、どんな顔をするか見てみたかった。
期待したような顔が見れなかったことに、なまえは落胆した。その落胆が、自分勝手な感情であることは知っていた。
「……おめでとう、とかないの」
「言って欲しいのか?」
彼は、なまえの顔を見ながら、真顔で聞いた。その眼を真っ直ぐに見返しながら、彼は、こんな顔を、こんな目の色をしていたのか、と思った。
「……なあ、ウェイバー」
その目を見ながら、なまえは彼の名を呼んだ。今は、こう呼んで良いのかわからなかったけれど、なまえにとって彼は、ウェイバー・ベルベットでしかなかった。
変化は劇的だった。
彼の目が見開かれる。驚愕、悔恨、悲しみ。様々な表情がアルコールに色づいた男の顔の上を、走っていった。予想外の変化だった。想定外だった。
続ける予定だった言葉を、続けないほうが良いのではないか。この顔を、ずっと見ていられるのではないか。そんな思いがした。
でも、そこで取りやめることが出来ないのが、なまえという男なのだと、わかっていた。
「まだ、おれが憎いか」
ひどい顔をしていると、なまえは思う。彼がなまえを「裏切り者」と詰った、あのときの表情によく似ている。
返事は聞かなくても、わかった。彼も、なまえが察したことを知った。軽快な音楽が終わって、拍手と歓声が沸き上がる。
なまえは笑う。彼は顔を歪める。
「……良い夜だな」
「……呪われろ」
彼の子供のような悪態に、なまえはシャレにならないと笑って、ぬるいビールを一気に飲み干した。次は冷えたビールにしよう。そう、思った。



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