部誌11 | ナノ


郷愁



かえりたい。
かえりたい。
いえに、あのころに。

かえりたい。



この世界にやってきて、どれほどの年月が過ぎたことだろう。
途中から数えるのも馬鹿らしくなってしまった。おれはもう子供ではなくなってしまったし、当時のような純粋さはなくなってしまった。
時々、自分の汚らしさに吐き気がする。実際に吐くこともあったけど、そんなことで身の裡を巣食う下劣極まりないものがなくなる訳でもなかった。

そもそも、今更帰ったところで、どうなるんだ。
おれのこの手は赤く汚れている。生きるのに必死で真っ当な人生なんか歩んでこなかった。おれは、汚いものに成り下がったのだ。生きる為には体も売ったし、人だって殺した。だって、死にたくなかったから。帰りたかったから。そこまで必死になってまで生きる価値のある人生とは思えなかったけど、それでもおれは、死ぬ前に父さんや母さんの顔が見たかった。

「たったそれだけのはずだったのになあ」

元の世界に帰れたとして、どうやって暮らせるだろう。汚いことなんか何も知らないで済む世界で、おれは果たして生きていけるのだろうか。そもそも、行方不明の状態のまま7年経過したら死亡扱いになるんだっけ。おれはこの世界に来て、何年経ったのか定かじゃないけど、もう両親はおれのこと死んだと思ってるんだろうな。

生きてていいことないって思うのに、死ぬ勇気もない。
地べたを這いつくばって、泥水啜って生きるなんて冗談じゃなく経験していて、何度も死にかけても、死にたいと思っても、おれは死ねなかった。死ぬ勇気なんてなかったから。
どれほどの屈辱も、死ぬことに比べたらなんでもないことのように思えた。

はあ、と紫煙を吐き出す。これも、あの頃のおれが知らなかったもの。覚えたのは成人前だったかな。15歳の頃にここに来たから、多分そうだ。麻薬に溺れないだけの理性があってよかった。結局は煙草にも依存性はありそうだけど、麻薬よりはマシだろう。

無性に泣きたくなることがある。
その瞬間は不意に訪れて、おれを身動きできなくさせてしまう。

帰りたい。
おれは、帰りたいんだ。
父さんや母さんに会いたい。
友達とまた馬鹿やって笑いあいたいし、顔も思い出せない好きだったあの子にも逢いたい。
生まれたばかりの従兄の子供はどんな風に成長しただろう。皺くちゃの猿みたいだった赤ん坊が、出会うたびに人間に近づいていく姿は面白かったし、人間ってすげえなって感動したっけ。従兄の兄ちゃんは「お前もこうだったんだぞ」って笑ってたっけ。

色んなことを必死に思い出そうとしても、記憶は薄れていってしまう。手のひらから零れ落ちる砂みたいに、すくいようもなく。
何度も何度も思い出を反芻しても、やっぱり記憶は上書きされていく。そうして、おれの覚えていた記憶が本当に正しいものなのか判らなくなっていって、気が狂いそうになる。

なあ、信じられないだろう。
おれ、もう父さんや母さんの声、思い出せないんだよ。


「また思いだし泣きか?」


隣に寄り添うぬくもりが、心強くていやだ。
おれの汚いところ全部、包み込んで許容してくれる、その優しさが嫌だ。

帰るために、必死で生きてきたんだ。そのことしか考えなかった。それだけで、充分だったのに。

「独りで泣くなってあれほど言ったのに」

白いシーツの中でもぞもぞと動き、後ろからおれを抱え込む。吐息がうなじに触れて、肌が粟立った。

「まったく、仕方ないな、君ってやつは」

ぎゅう、と抱きしめられて、心の底から安堵する。今この瞬間だけは、どうしようもなく安全で、心休まるのだとおれは知ってしまった。知らされて、しまった。

一体どうしてくれるんだ。どんなに辛い目にあっても、いつか帰れるって、その日だけを夢想してなんとか独りで立ってここまで生きてきたのに。
こんな風に甘やかされてしまっては、おれはどうしようもない。もう独りでは生きていけない。この手を離されたらどうなってしまうのか、自分にも想像がつかない。

なあ、スティーブンさん。
こんなにあんたに甘やかされて、どうしよう?
もし今この瞬間、おれのいた世界に帰れるとして。
帰りたいって思えるか、おれには自信がないんだよ。
薄れていく大切な記憶は、あんたが上書きしてしまったから。思い出せなくて辛くても、あんたに抱きしめられるだけで、どうでもよくなってしまうんだ。

「ほら、こっち向いて。大丈夫だから」

振り向かされて、優しいキスをされる。唇はそのまま頬に触れて、零れるおれの涙を掬った。ほとほとと声もなく涙を流すおれに微笑み、何度も何度もキスをくれる。背中を撫でる大きな手のひらが、不安を感じることなんてひとつもないんだって、そう思わせてくれる。

おれは生きる為になんでもしてきて、泥水だって啜ったし、体だって売ってた。街角で客漁りもしたし、汚い路地裏で汚い逸物咥えて金を稼いでいた。スティーブンさんはおれのかつての客の一人だった。
娼婦や男娼たちが客を探すストリートで、縄張り争いに負けたおれは、殴られた顔を摩りながら、どうするかを考えてた。腫れた顔で客をとるなんて無理だ。とれたとしても加虐趣味の変態くらいで、死にたくないおれはそんな危険なことはしたくなかった。今日は諦めるしかないか、って空きっ腹を撫でるおれの腹音に吹き出したの通りすがりが、スティーブンさんだったのだ。

「笑ったりして悪いな、あんまりにも盛大な鳴りっぷりだもんだから、ついね」

そう笑うスティーブンさんは見るからに伊達男で、女には困ってなさそうな上流階級の男そのものだった。なんでこんな娼婦や男娼みたいな下級層のたまり場にいるのか分からず、穏やかでない想像しかできなくて逃げ出したくてたまらなかったっけ。
後ずさりするおれにスティーブンさんは苦笑し、襟首ひっつかんでファストフードで飯を奢ってくれた。

それ以来、スティーブンさんは何度となくフッカーストリートにきてはおれを見つけて飯を奢ってくれた。他の娼婦どもには目もくれないもんだから、やっかみで痛い目にあったりもしたけど、セックスも要求せず飯を奢ってくれる物好きな御仁に、おれは懐いてしまった。だって仕方ないだろう、意味も分からず、元NYだなんていうふざけた世界にやってきたおれに、初めて優しくしてくれたひとなんだから。たとえ騙されていたって、飯を奢ってくれたり、たまに服をくれたりする彼の行為を考えればおつりが出るくらいだ。それくらい、おれはやさしさって奴に飢えていた。

結局彼がフッカーストリートくんだりまで来ていたのは理由があったし、おれも知らない間に彼に情報を与えて、協力していたらしい。説明してくれたけど、難しすぎて結局のところ何がどうなっていたのか分からず仕舞だ。それ以来、彼の情報屋の一人として雇われることになった。おれにはスティーブンさんが欲しい情報なんて分からないから、なんかやばそうな話だな、って噂は流すようにしてた。それで充分だってスティーブンさんは笑って許してくれた。

おれとスティーブンさんとの間にセックスなんてものはなくて、それが心地よい関係のはずだった。スティーブンさんが欲しいのは情報であって、おれの体じゃない。ホモじゃないし、女にも困ってなさそうなスティーブンさんがおれを欲しがるなんて思えなかったから、おれは安心してスティーブンさんと会うことができた。客だといつ寝首をかかれるか分かったもんじゃない。おれの知るHLっていう街は、そういう腐った街だったから。

おれと彼が関係を持つようになってしまったのも、今みたいな精神状態の時だった。
帰りたいって、泣くおれを慰めるように、スティーブンさんは優しく優しくおれを抱いてくれた。真綿に包むように、そっと。お蔭でおれは呼吸困難だ。優しさってのは、人を殺すこともあるんだと知った。おれにとって無慈悲なことしかしない世界で優しさに触れるってことは、なんとかこのクソッタレな世界で自立して生きてきたつもりのおれには、あまりにも毒だった。

我に返った瞬間思わず逃げを打つおれを捕まえて、こうして今囲われるように生活している。おれとスティーブンさん以外には、誰もいないこの部屋で、たったふたり。おれは外に出もせずに、怠惰に過ごしてはスティーブンさんがやってくるのを待ってる、くそみたいな生活。それでもあの悲惨な生活には、戻れそうになかった。

「なあ、約束、忘れないでくれよな」

キスの間にそう告げれば、スティーブンさんは悲しそうに微笑んだ。

「ああ、そうだな。忘れないさ。君がそう望む限り」

「約束、約束だから、だから……」

飽きたら迷わずおれをころして。
あなたが逝くときは、決しておいていかないで。

その約束さえあれば、このクソみたいな世界でも、生きていけると、そう思うから。

遠くで両親が泣いている気配がした。
錯覚に違いないそれを、おれはどうしても無視することができない。

かえりたい、かえりたくない。
相反する感情で、思考で、心が引き裂かれそう。
だからいっそ、塗りつぶしてくれ。
まやかしかも知れない、あんたのその愛で。
過去の記憶ごと、何もかもすべて。



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