部誌10 | ナノ


アイリスとカレンデュラ



夢を見ていた。
ふわりと花の香りがして、見下ろすといつの間にか花束を抱いていた。オレンジの、明るい花束だ。確かこれは、カレンデュラ──キンセンカだ。
隣ではグランが同じように花束を抱えて立っていて、俺に微笑みかける。抱いた花束は青く、花の名前はアイリス、だったと思う。花屋でバイトしている姉が、無駄に花言葉に詳しくなったから、二つの花の花言葉の意味を知っている。

「別れの悲しみ」と、「希望」だった。



目が覚めてもそこは自分の俺の部屋じゃなかった。そのことに失望の溜息が漏れる。相変わらずモーター音みたいな音が遠くで響いていて、はじめはこの音がうるさくて眠れやしなかったのにな、なんて思った。
夢から醒めなくて、もう何日になるだろう。星がきれいな世界の夢を見ていたはずだったのに、今ではここが現実だ。空に浮かぶ島から島へと飛ぶ騎空艇なる飛行船の上で、現実に戻るのをずっと待っている。

夢の中の友達だったグランに、俺の名前じゃない名前で呼ばれてから、帰れなくなった。
本来の名前を思い出せず、訊かれても曖昧に笑うことしかできなかった俺に埒があかないと思ったのか、グランは俺に名前をくれた。そしてその名前で呼ばれてから、俺は夢から醒めなくなってしまったのだ。本来の名前を思い出せれば帰れるのかもしれない。けど、どんなに頑張っても、思い出せなくて。
元々この世界にいるときは名前を思い出せなかった。ひとりで星を見上げていた時は、自分の名前を思い出せないなんて思いもしなかったし、呼ばれなくても名乗れなくても不便はなかった。グランにあって、名前を問われるまで、自分の名前が思い出せないことにすら気づいてなかった。

なまえ。
それが、今の俺の名前だ。それ以外に、俺には名前がない。思い出せない。それがとても、辛い。
目が覚める度に、現実のことを思いだす。俺の家族、俺の友達、俺の生活、俺の生きてきた時間。でもそれも、名前ほどではないけれど、おぼろげなものになっている、気がする。姉ちゃんが花屋でバイトしてて、そこで知った花言葉を教えてもらったことを覚えているのに、姉ちゃんの名前を思い出せないのだ。どんな顔で笑って、どんなことで怒るのか、そんなことも忘れそうになるのを必死でつなぎとめてる。

俺、一体どうなるんだろう。
情けないことに泣きそうだ。だってそうだろう、俺には帰る場所があるのに、帰れないんだから。

本当は判ってるんだ。今こうしていることは、夢なんかじゃないって。現実なんだって。夢だったかもしれないけど、現実になってしまったんだって。
俺は、俗にいう異世界トリップなるものを、体験してるんだって。
でも俺は、漫画や小説の主人公みたいにそれを喜べない。楽しめない。毎朝こうやって、ベッドの中でうじうじと俺の世界のことばっかり考えてる。だってそうしないと、忘れそうなんだ。帰ることが、できそうにないんだ。

突然グランサイファーに現れた不審者だってんで、俺はこの部屋に軟禁されている。この船に引き入れようとするグランと、それに反対する仲間たちで意見が分かれたらしい。俺の処遇をどうするか話し合ってるみたいだけど、今の俺にはどうでもよかった。

グランのことは好きだ。いいやつだと思う。星を見上げながら色んな話をした時間は楽しかった。
でも、あの時。グランがおれをなまえなんて名前で呼ばなければ、こんなことにならなかったんじゃないか、って思う自分もいるんだ。だからグランの顔をまともにみることができない。ひどい言葉をかけてしまいそうだからだ。

「なまえ? 起きてるか?」

コンコンとノックの音が聞こえる。グランだ。今の俺には、それに応えることができない。

「寝てるのか? 起きたら、扉の外に朝ご飯置いておくから、食ってくれ」

じゃあ、とグランは扉も開けずに、朝飯を置いてその場から去ったみたいだった。

グランの気遣いが胸に痛い。
俺は一体、どうすればいいんだろう。




突如現れた不審者をこの船に乗せたいと言ったグランに真っ先に反対したのは、カタリナだった。素性の知れない人間を、この船に乗せるなんて。ルリアのことを一番に考えるカタリナが反対するのは、仕方のないことだった。

「多分、僕のせいなんだ」

いつもの明るい様子と違うグランに、反対していたカタリナも、事の次第を見守っていたラカムも瞠目した。そうしてグランは、なまえという少年との邂逅について語る。彼をこの世界に引き留めてしまっているのが、グランが名づけたせいかもしれない、ということも。

「なまえは、いつも朝日に照らされるともやみたいに消えてしまうんだ。でも今日はそれがなくて、原因はそれくらいしか、思いつかなくて」

どうしよう。
年下ながらに、いっぱしの騎空団団長としてやってきたグランの、迷子の子供のようなその一言に、カタリナもラカムもかける言葉が見つけられないようだった。沈黙が降りたその場を打開したのは、オイゲンだ。

「お前さんが落ち込んでどうする、グラン。一番不安なのは、なまえって坊主だろう」

俯くグランの頭を乱暴に撫で、ばしりとその背中を叩く。

「何にも知らねえ奴さんを支えられるのは、お前さんだけだ。今みてえな状況だからこそ、落ち込んでる場合じゃねえだろう?」

「オイゲン……」

ニカリと笑うオイゲンの様子に、グランもなんとか笑みを浮かべる。力のない笑みではあったが、それでも落ち込んでばかりいるよりはマシだろう。オイゲンとグランのやりとりに、なし崩しに不審者をこの船に乗せることになってしまったようだと悟ったカタリナが大きな溜息を吐き、ラカムも仕方ないと苦笑する中、ルリアがグランの後ろからあの、と顔を出す。

「あの、今こんな時に言うべきか、わからないんですけど」

眉をハの字にしたルリアが、視線をさまよわせながら告げる。

「なまえ、さん。あのひとから、星晶獣の気配がします……」


一体何が起きているのだと、誰もが把握できていなかった。
けれど恐らくは、何かが起きているのだと、それだけは判っていた。



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