部誌10 | ナノ


春の雷



犬飼澄晴がボーダー本部に幼い子供がいることを知ったのは、ここ最近のことだ。
ボーダーとはつまり界境防衛機関のことであり、近界民と戦うための組織である。トリオンの問題から、戦うのは大人ではなく子供主体ではあるが、それでもある程度体の出来上がった子供が任務についている。最年少の柿崎隊・巴虎太郎でも、小学生高学年からの入隊だ。小学校にも通ってなさそうな子供がうろちょろすることは滅多にない。

だからその子供が視界に入ったとき、玉狛の人間かな、と思ったのだ。カピバラに乗った幼児で有名な林藤陽太郎は、稀に本部に出没する。初見の人間が二度見してしまう幼児は、何故だかわからないが本部への立ち入りを許可されており、保護者がいるときはともかく、ひとりでそこらへんを歩き回っては周囲を戸惑わせていたりする。「まあでも、玉狛所属だから」でなんとなく納得してしまうあたり、あの支部がどれほど特殊なのか理解できる。
ぱたぱたと軽い足音を立てて小走りの幼児は、カピバラに乗っている訳ではなかった。いや陽太郎イコールカピバラと認識している訳ではないが、それでもあの幼児がカピバラと共にいないことの方が珍しい。いつものゴーグルやヘルメットもなく、髪も少し茶色がかっていて、着ている服の系統も異なる気がした。

「あれえ?」

じゃああれは誰なんだろう。
不意に湧いた興味のままに、犬飼は行動を起こした。走り去った小さな影を追いかけることにしたのだ。幸いミーティングは終わったばかりだし、あとは帰るかランク戦でも参加するか、という暇具合で、時間に都合はつく。何かを追いかけていることはおくびにも出さず、いつも通りの仕草で本部内を歩きだす。日常に現れた小さな変化を、今の犬飼は誰かと共有する気にはなれなかったのだ。

幼児と犬飼では、足の長さも違えば歩幅も違う。小さな影には、すぐに追いつくことができた。一体誰なんだろうという興味本位の行動ではあったが、その謎の正体はすぐにわかりそうだ。どこの誰だか拝んでやろう、と幼児にさらに一歩、近づいた瞬間に、犬飼の体は固まった。

「うっ……んく、うぇ」

それは、誰が聞いても間違えようもなく、泣き声だった。それも泣くのを必死に我慢しているけど堪えきれない、そんな泣き方だった。

犬飼澄晴は、女系一家の中の末っ子である。
家族編成は両親に悪魔のような姉2人。日常的にパシリにされたり虐げられたりしてきた犬飼は女性に対して年相応の夢を抱かなくなったし、姉2人の横暴をやり過ごす方法を編み出しているうちに性格もどこかしら擦れてしまった自覚もあった。
そんな犬飼は、実は自分より年下の子供との接触した経験がない。周囲の人間は姉の友人や同級生が多く、親族の中では犬飼が一番年下だ。ボーダーの後輩だって中学生以上の者ばかりで、つまり小学生以下の子供との接し方をまるで知らないのである。泣いてる子供の慰め方なんてもっと知らない。

これ、一体どうすればいいの?

その場で固まってしまった犬飼は、逃げ出すこともできず棒立ちになるしかなかった。泣いている子供をこのまま放置する訳にはいかないという良心もあったし、ボーダーの人間としてこの子供が果たしてボーダー本部に入ることを許されているのか確認する必要もあった。しかし、次の行動をどうすればいいのか、皆目見当もつかないのもまた事実だった。

助けて二宮さん。
どう考えても一助にすらならない人物に心の中で助けを求めているあたり、犬飼は相当混乱していた。冷や汗が止まらない。おれが泣かせてるって思われたらどうしよう。興味本位で行動するんじゃなかった。後悔しきりで今後の対応をどうすべきか働かない頭でぐるぐる考えていると、子供が犬飼の存在に気付いたようだった。

「……っ」

「あ、ちょっと!」

ぼろり、と大きな粒の涙がこぼれたと思ったら、子供が立ち上がってその場から逃げ出そうと駆け出した。けれどまあ、子供の全速力など犬飼にとっては大した速さではなく、しかも換装しているともなれば追いつくのは容易い。追いつき、少しかがんでその小さな手を取ると、子供はそのまま犬飼の足に飛びつく形になった。

「わ、軽……」

あまりの衝撃の弱さに、思わず口に出していた。膝に体がぶつかった気がしたが、痛くなかっただろうか。そんな心配をしながら、犬飼は掴まれた腕を振って逃げ出そうとする子供のつむじを見下ろしていた。

「キミ、どこのこ? なんで泣いてたの? 大丈夫?」

矢継ぎ早に口にしても、勿論子供が応えることはない。抵抗しても犬飼の腕が離れることはないと悟ったのか、子供は俯いたまま震えるばかりだ。まるで弱い者いじめをしている気になってしまって、居心地が悪い。間違ったことは言っていないとは思うが、子供にとっては責めているように聞こえはしないだろうか。
一向に反応する気配がない様子に、犬飼は空いた手で頭をばりばりと掻いた。とりあえず顔が見えねばどんな反応をしているのかもわからない、と床に膝をつくと、子供の目からは涙が滲んでいて、今にも零れ落ちそうだった。それでも泣くまいと眉間に皺を寄せ、歯を食いしばる様子に、犬飼の胸は打たれた。逃がすまいと腕を掴んでいた手はそのままに、けれど掴む力を少し弱めて。宥めるように、その背中を撫でてやる。

「だいじょうぶ、こわかったねえ、だいじょうぶだよ」

柔らかい声を努めて出して、何度も何度もそう告げて背中を撫でる。強張っていた子供の体は、犬飼が声をかける度、背中を撫でる度に弛緩していった。次第にぽたぽたと零れ落ちてきた涙をスーツの袖で拭ってやる。換装体でなければジーンズの尻ポケットにハンカチが入っているのだが、今換装を解いて驚かせる訳にもいかない。
泣きやむように、と背中をとん、とん、と叩いてやると、子供は犬飼の首に抱きついてきた。ふわりと香った甘いミルクのような香りに、妙な感動を覚える。思わず抱きとめた子供の体は柔らかく、どうしようもないくらいに脆く感じた。大切にしなければすぐに壊れてしまいそうだ。

「ひぅ」

安堵にか更に声もなく泣きだしてしまった子供を、犬飼は優しく抱きとめた。よしよしと頭を撫でて、子供が泣きやむまで、ずっとそばにいた。



子供の名前がみょうじなまえだと知ることができたのは、それから少し経ってからだった。泣きやんだなまえが拙くも可愛い声で名前を告げ、ようやく犬飼は「太刀川さんとこの子か」と理解したのである。
少し前にスポンサーの子供がボーダーの、しかもA級一位の太刀川隊に預けられることが通知されたのは、数か月前のことになる。子供を抱えて本部内を練り歩く太刀川は、幼児性愛者か保護者かと意見が分かれたのだと噂で聞いた。
犬飼がなまえのことをすぐに思い出せず、またその顔を知らなかったのは、ひとえに犬飼が所属する隊の隊長、二宮匡貴が起因する。太刀川が気に食わないらしい二宮だ。その名前を口にするだけで不機嫌になる。触らぬ神に祟りなし、の精神で犬飼は太刀川関連の内容に関しては口を噤み、またその時は興味も抱かなかったので、すぐにその情報は忘却の彼方に消えてしまったのだった。

「迷子になっちゃったんだね? じゃあ太刀川さんとこに帰ろっか」

送っていくよ、と提案した犬飼の言葉に、なまえはぱっと笑顔になった。その破壊力たるや、筆舌にしがたい。太刀川が後生大事に抱きかかえる気持ちが判ってしまう。
毎回太刀川はこんな笑顔を向けられているのだろうか。いいなあ、可愛いなあ。子供が苦手そうな二宮の手前、口が裂けても提案なんてできないが、なまえくんがうちのこになればいいのになあ、なんてことを、やわくて小さい手を繋ぎながら思った。
抱っこしようか、と提案した犬飼に、なまえはゆるゆると首を横に振った。そうしてきゅ、と自分から犬飼の手を握ったのである。なまえの手はまだ小さくて、犬飼の人差し指と中指を握るので精一杯のようだった。その事実が、犬飼を言葉にできない気持ちでいっぱいにするのだ。

「それでね、けいくんがね」

太刀川隊の作戦室までの道中、なまえが嬉しそうに犬飼に話す内容の八割が太刀川のことだ。その内容は情けなかったり頼もしかったりするけれど、その言葉尻は楽しげで、なまえが一直線に太刀川を慕っていることがわかる。そんなにも想われている太刀川が羨ましいと思ったし、そんな風に誰かを好きになれるなまえを好ましいと思う。太刀川がなまえを溺愛していることは有名らしいので、なまえが太刀川隊に預けられていて不快になることはなさそうだ。その事実によかったと安堵できるくらいには、犬飼はがっつりなまえに絆されていた。

「なまえくん!」

太刀川の声だ。その声が聞こえた瞬間、なまえは掴んでいた犬飼の指を振りほどき、一直線に太刀川のもとへ駆け出した。

「けいくん!」

まるでドラマのようだ。2人同時に掛け出して、なまえはジャンプして太刀川に飛びつき、太刀川はその勢いをうまく殺しつつ、なまえをそのまま抱き上げる。そうしてそのまま声をあげて泣きだしたなまえに、ああやっぱりずっと緊張していたんだな、と犬飼は悟った。周囲の人間の反応は様々で、そのなかで敵意や不快を隠さずにいる大人げない人間も多い。ひとりぼっちで本部で迷っていたなまえは、不安で仕方なかったに違いない。周囲への牽制も込めて睨みつける犬飼に気付いたのか、太刀川は先ほど犬飼がしていたように背中を撫でながらこちらに視線を向けた。犬飼とは違い、ぎこちなさのないその仕草に、なんとなく敗北感を覚えてしまう。

「犬飼か。なまえくんが世話になったな」

「いえいえ。可愛い子が泣きながら迷子になってたら、そりゃあ保護するでしょ」

暗に迷子時に泣いていましたよ、と密告すれば、太刀川の機嫌は一気に悪くなった。周囲への威嚇を隠しもしない。不穏な空気に周囲がざわめくが、自業自得だと犬飼は思う。こんな小さな子供が、駆けだしてまであんな人気のないところに逃げ込んで、ひとりで泣いていたのだ。何かあったに決まっている。そもそもここまでの道中だって、好意的な視線以外にも色々含むものがありまくったのだ。ひそひそと囁かれた内容までは把握できなかったが、なまえを不快にされたに違いない。

「太刀川さん! なまえくんいました!?」

今度は出水の登場だ。太刀川に駆け寄り、その腕に抱っこされたなまえの存在を確認するや、心底安堵した、とばかりに息を吐いた。

「なまえくん、よかった」

「けいくんも、こうへいくんも、ごめんなさい」

「無事ならいいよ。今度から気を付けような」

えぐえぐとしゃくりあげながらのなまえの言葉に、出水はなまえの頭を撫でながらそう言葉を返す。次いで太刀川が出水の耳元で何かを囁くと、出水もまた、一気に不機嫌になった。太刀川を睨むように見上げ、こくりと頷くと、太刀川もまた頷いた。

「じゃあなまえくん、作戦室に戻ろうぜ。国近も待ってるからな」

「うん……こうへいくんは?」

「おれはちょーっと用事があるから、またあとでな」

にこにこと微笑んだ出水が手を振ると、なまえは片腕を太刀川の首に回したまま、もう片方の手で出水に向かって手を振り返した。少し不安そうなその表情に、すぐにそっちに行くよ、と出水が告げると、ようやく安心したような顔になる。

「すみはるくんも、ばいばい。ありがとう、またね」

「うん、またね、なまえくん」

出水同様手を振ると、なまえが嬉しそうな顔で振り返してくれる。可愛い。こんなに可愛い生き物を敵視する人間なんて人間じゃないんじゃなかろうか。もしや近界民では?
出水もそう思っているのだろう、太刀川に抱っこされたままのなまえの姿が見えなくなると、その不機嫌を隠しもしなくなった。すっと笑顔が消え、真顔になるその様がいっそ恐ろしい。逆に犬飼は、その笑みを絶やさぬまま出水に視線を向けた。

「出水クン」

「なんすか、犬飼センパイ」

「おれも、手伝いたいなあ」

「大歓迎ですよ」

にっこり笑う犬飼と、真顔のままの出水。2人揃って周囲を睨め回すと、一部の人間がびくりと震えた。

「そこ、動くなよ」

「顔は覚えてるからね」

その日のランク戦が荒れまくったのは、致し方ないことだと犬飼は思う。
出水とのタッグは、目的が一緒なこともあり、なかなか楽しめた。異色の組み合わせに、何も知らない隊員たちからは首を傾げられたが、その理由を吹聴するものは誰もいなかった。
一部では「事変」として囁かれ、ボーダー史にそれとなく名を残す1日となった、春の日の出来事であった。



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