部誌10 | ナノ


春の雷



 遠くで雷鳴が轟くのが耳に入る。
 季節外れの雷鳴に自然と興味はそちらへと向けられた。日も落ち、宵を迎えた空は濃灰の雲に覆われている。もしやと吸い込んだ空気は乾燥した冬にはあまり味わえない水気が含まれている。
「雨が降るかしら」
 頭に浮かんだ言葉が口からでていく。独り言のつもりで口にしたつもりが、息づかいと筆が滑る音だけの静寂な空間ではあまりにも大きいものになってしまった。ぴたりと筆を持つ手が止まってしまう。そこでやっと自身の失態に気づき、慌てて口を塞いだがもう遅かった。
「雨が降るのか」
 顔を上げるどころか、一瞥さえも向けられない。淡々と尋ねる男のつれなさから生まれた寂しさを誤魔化し、見られていないと分かっていながらも笑顔を作る。
「かもしれません、遠くで雷が聞こえたから遅かれ早かれ降ってくるのかも」
「雷? こんな直に珍しい」
 凍てつく寒さと穏やかな暖かさが交互に訪れる二月も終わりを迎えようとしている。冬から片足抜きかけようとしている季節に雷はとても珍しい。
「春が近いのかもしれませんね」
「春雷か、もうそんな季節になるのか」
 どうりで最近そのまま寝ても風邪を引かないわけだ、色々と問い詰めたくなる台詞をなんでもないように呟くと両腕を上げて軽く伸びをする。そんな他愛もないやりとりでありながらも、作り笑顔が自然と緩んでいく。
 自身が知る中で、こうした会話を出きる同世代の中ではこの人ぐらいなものだ。『春雷』の意味をしっかりと理解した上で艶子の言葉を汲み取って貰える。些細なことであろうとも、それに幸せを感じるのを彼は知らない。そしてそれが、彼を好む一つの要因でもあった。
 一人悦に浸っていたが、おもむろに道具を片づけ始めた先生を慌てて呼び止める。
「先生、まだ途中じゃ」
「今日はそこまで筆も乗らないし、雨が降るならさっさとお暇するよ」
「もし途中で降ったらずぶ濡れになってしまうじゃないですか、雷も近いのだから逆に出たら危ないかも」
「そしたら知り合いのところでしばらく雨宿りでもするさ」
 先生の中ではもう帰ることが決定事項になってしまったみたいだ。こんなことならばいわなければよかった、自身の失言を嘆いたところで道具を片づける手を止めない。艶子が何をいっても聞く耳を持たず、一分も経たずに身支度を終えてしまう。そのまま玄関に向かう先生の後ろを名残惜しくついていく。
「本当に帰ってしまうんですか?」
「雨が降ったら帰るとき面倒だろ」
「でしたら止むまでいても」
「それはそっちに悪いだろう」
「そんなこと」
 断定は最後までいえず、途中で口を閉ざす。言葉の意図に気づいてしまったら、それ以上引き留められなかった。それでも、次への口実を作りたくて無理矢理傘を押しつける自分の狡猾さに内心嘲笑する。
 靴を履き、玄関を出ようとする先生の後ろ姿をただ黙って見送る。ほんの一時でもこの場に留まって欲しいのに、言葉が思い浮かばないのがとても歯痒い。
「艶子」
 不意に、先生が引き戸に手をかけたまま振り返る。彼が自分を視界に捉えたのは今日初めてだった。心臓が大きく脈を打つが、顔に出さぬように笑顔を張り付ける。
「なんでしょうか」
「また何かあったら頼む」
 素っ気ない言葉だけを残し、こちらが呼び止める隙も与えずにさっさと出ていってしまう。引き戸が音を立てて閉まれば、再び静寂が訪れる。先生が出ていった引き戸を見つめたまま、呆然とその場に立ち尽くした。
 それからどれほど時間が経ったか、石のごとく固まった手を何とか動かし、そろりと頬へと伸ばす。触れた掌越しで熱が伝わっていくのを感じた。
 春を告げる雷は未だ鳴り止む気配はない。きっと時間もかからずに雨が降ってくるだろう。そうすれば、彼は自分が貸した傘を使わざる負えない。
 たとえ自身に春が来なくとも、その事実だけで十分幸せであった。



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