部誌10 | ナノ


哀歌



はあ、と吐いた息が白く染まる。
寒さにか、鼻がつんと痛い。首に巻いたマフラーをたぐりよせて鼻まで覆う。
隣を歩く幼馴染を見れば、相変わらず歩きながらゲームに興じている。ごつい手袋を装備してまでゲームをしている当たり、こいつはもう筋金入りだ。

「っくし」

鼻がむずむずして、くしゃみが出た。あー、と濁った声を出しながら洟をすすると、隣からボソリと声がかかる。

「A tes souhaits」

「……Merci」

フランス語での「お大事に」を口にした幼馴染に、黒尾も同様にフランス語で返答する。幾度となく交わされて覚えてしまったやりとりは、もうひとりの幼馴染が発端だった。

「なまえ、やっぱり電話もメールも忘れてるね」

「そもそもあいつ、電化製品苦手っぽいんだよなあ」

黒尾鉄朗と孤爪研磨の幼馴染であるみょうじなまえがフランスへ旅立って、もうすぐ1年になる。
三人一緒ではないことに、黒尾はいまだ慣れないでいた。恐らくは、孤爪もまた。

――もう18歳になったから。

春生まれのみょうじにそう告げ、学校が始まる9月より前に、みょうじのピアノの師はフランスへ連れ去ってしまった。フランスの義務教育は16歳までなので、待ってくれた方だとみょうじは笑っていた。
もともとはフランスで生活していたひとだ。子供は親元を離れるべきではないという理由で、みょうじのために数年日本で暮らしていたが、限界が来ていたのかもしれない。それでも2人にとって、ピアノのセンセイは憎むべき相手だった。いつだって彼は、演奏旅行だのレッスンだのでみょうじを独り占めしていたからだ。

どうせここまで待ったなら、日本での高校生活が終わるまで耐えろと思うし、幾度も演奏旅行で里帰りしていたはずで、ホームシックもくそもあるかとも思う。せめて高校を卒業させてあげたかった、という秘密を打ち明けてくれたみょうじ母のことを知っているだけに、余計に憎たらしく思えた。

黒尾や孤爪の日常生活にフランス語が混じっているのはみょうじがよく口にしていたからで、それはみょうじの恩師に由来するものだ。馴染んでしまったやりとりではあるが、そう考えたら苛立ちを覚えてしまう。

みょうじが日本を去り、フランスへ旅立って、もうすぐ1年になる。
それほど長い時間をかけても、馴染んだやりとりはなくならなかったし、みょうじの定位置がぽっかりと空いていることに違和感を拭えない。

3人で歩くとき、黒尾とみょうじが並び、孤爪はゲームをしているがために少し後ろからついてくる。それがいつものスタイルだった。歩きながらのゲームは危ないとみょうじが叱りつけ、孤爪の手を引いて歩き出し、真ん中に配置されることになるのもまた、いつものことだった。
だから、はじめから孤爪が隣を歩いていることが、みょうじの喪失を思い出させる。痛む胸は相変わらずで、やっぱり好きなのだと今更思い知る。黒尾はみょうじへの想いを、過去にはできないでいた。

「電子音が嫌いだからってサイレントにしてるけど、今時の着信音、普通に曲や声にできるのにね」

「言い訳にしてるだけだろ。やり方知らねえんだよきっと」

「メールの返信は一応帰ってくるんだけど、時間差がすごいんだよね。1週間後とかザラだし」

「機械オンチすぎてそこまで時間かかってんのかもな」

「ありえる」

話題がみょうじのことになってしまうのは、仕方がないことのように思えた。大切な思い出を忘れないでいようとばかりに、2人でする会話はみょうじのことばかりだった。
黒尾も孤爪も、みょうじがいなくてさびしいのだ。どれだけの月日が経とうともその寂しさが消えることはない。だって、物心ついてからずっと、ずっとそばにいたのだから。

寂しくないはずがない。
大切に決まってる。
ずっとずっと、そばにいたのに。

ねえ、と誰もいない場所に話しかけることがあった。その場所は、みょうじの定位置だった。
目覚まし時計代わりのモーニングコールがなくて、孤爪の遅刻は増えた。
朝のランニングで、冷えた空気のなかひとり走った。いつのまにか、ランニングの習慣は減った。
昼食を、部活仲間ととるようになった。
夕食後のひとときに、ピアノの音が聞こえないことに、どうしようもない寂しさを覚えた。

たったひとりの人間がいなくなったことで、生活の変化は尋常ではなく訪れた。それは2人にとって、みょうじなまえという人間がどれほど重要だったかを示していた。
変化に慣れたくなかった。変わってしまった習慣が、日常のものになるのを恐れた。みょうじがいない日々が、当然になるなんて考えたこともなかった。

電話は数度。
メールの返信は来るけれど、向こうから送られてくることはない。
フランスという遠い地で、慣れないことばかりで大変なのだろうと、頭では理解している。
それでも、どうしても寂しかった。悲しかった。夢を叶えにいったみょうじに、戻ってきてほしいと我儘を言いたくなった。

「クロも大概、ばかだよね」

「え?」

「なんでもない。今度なまえに着ボイスになりそうな素材送っても面白いね。なまえのスマホなんだっけ、設定方法と一緒に送りつけてやろう」

どんなのがいいかな、と話を逸らした孤爪が何を言ったのか問い詰めることもできず、黒尾は孤爪の隣を歩いた。
話題に乗ったけれど、そのほとんどが頭に残ることはなかった。


 ****


夕食の時だ。
みょうじがいなくなってからというもの、黒尾の家でもテレビをつけることが増えた。この近隣の住宅ではほとんどがそうだろう。夕食後にピアノの音が流れることがなくなったからだ。黒尾も孤爪も、食後にみょうじ家を訪れる習慣がなくなって久しい。
テレビをつけないという選択肢はなかった。聞こえない旋律を耳が求めてしまうからだ。きっと黒尾の家族も、近隣の住人も、同じように思っていることだろう。

誰も観ていないテレビでは、音楽番組が放送されている。耳慣れない曲を聴きながら、黒尾は不意に思い出していた。

「普通のひとはこの曲なんだ」

今のように、音楽番組を観ていた。観ていた、というよりは、眺めていた、という方が相応しい。みょうじ家のリビングで、幼馴染3人揃ってDVDでも観ようとテレビをつけたら、一番はじめに映されたのがその音楽番組だったのだ。

意外そうな顔をするみょうじに、黒尾も孤爪も首を傾げた。そんな2人に、みょうじは苦笑して告げた。

「なんか情念感じるポップソングだけど、おれにとっては違うなって」

そう言って聞かせてくれたのは、ハイドンの交響曲第29番だった。
音楽番組で聞いた曲とは全く異なるクラシックの音色に、黒尾は驚いたものだ。もの悲しい雰囲気はあるものの、比べてみれば爽やかな印象すら抱く。

「ピアノのコンチェルトでもなんでもないんだけど、チェンバロがちょっと気になって調べたんだよなあ」

そしたら結構好きな曲だから聞くようになったんだ、とみょうじは笑った。

みょうじの影響から、黒尾も孤爪も、クラシックへの苦手意識はない。学校の友人と話を合わすためにJPOPなども耳にするが、聞いていて落ち着くのはクラシックだった。
幼い頃からみょうじのピアノを聞いていたためだろう。曲名を言えるもののほとんどがピアノ曲だったが、みょうじの勧める曲を動画サイトなどで聞くことも多々あった。クラシックともなれば著作権切れで無料でダウンロードできるサイトも多々あって困ることはなく、今も黒尾や孤爪の音楽プレイヤーにはクラシックが入っている。

なんとなくそれが無性に聞きたくなって、黒尾は早々に自室に戻った。PCをつけ、ダウンロードサイトへ繋ぐ。目的の曲を見つけると再生ボタンを押し、ベッドに寝転んで目を閉じた。過去に聞いたものと同じメロディーである気はするが、印象がどことなく違う。指揮者の解釈やオーケストラの違いで結構な差が生まれるのだと、昔みょうじに聞いた気がする。

「ここ、ここのバイオリンが好きなんだ」

みょうじの声が蘇る。今の黒尾と同じようにみょうじは目を閉じて音楽に聞き入り、穏やかなヴァイオリンの音色が流れた時に微笑んだ。

「やっぱりピアノが一番だけどさ、バイオリンの音も好きなんだよなあ……」

そう、愛おしさを隠しもしないみょうじの微笑みが、好きだった。音楽が、クラシックが、ピアノが大好きで、ピアノを弾いてない時だって、結局は音楽のことばかりのみょうじが、好きだった。
あの頃からきっと。ずっと、みょうじが好きだった。

今更。
本当に、今更だ。
近くにいなくなってから気づくなんて、ヘタなドラマや漫画みたいな想いを、黒尾は味わっている。みょうじが傍にいない世界は、色あせて見えた。喪失感を覚えた胸は、まるでぽっかりと穴が開いたよう。

さびしい。
さびしい。
どうしようもなく――恋しい。

機械音痴で、SNSなどもしていないみょうじが今どんな状況かなんて、わからない。何を感じ、何を見ているのか。海の向こうにいるみょうじと、こちらにいる黒尾は、今までのように同じ経験をすることも、こんなことがあったと共有することもできなくなってしまった。みょうじが留学すると決まってから、ある程度予想はできていたはずだが――こんなにも傍にいられないことが辛いとは想像もできなかった。

なあ、なまえ。今何してる?
学校も始まって、忙しい頃だろう。目新しいことばかりで、余裕がないのかもしれない。みょうじは日本にいるときはどこが余裕があって、助けれられたことはあっても、誰かに助けられることも、助けを求めることも少なかった気がする。それでもみょうじは、時折「お願い」と称して、些細なことを求めてきたりしたものだった。
今。異国の地でみょうじが困っているのだとしたら。今こそ助けにいきたい。些細なものでも大がかりなものでもなんでもいい。みょうじの、力になりたい。

けれどかの地は遥か遠く、海の向こう。
学生でしかない黒尾にはどうしようもない距離だ。

決して振り返ることのなかった、みょうじの背中を思い出す。
あれは決別の証だ。幼い頃から傍にいたからこそわかる。恐らく、みょうじは日本に戻る気がない。黒尾のささやかな手助けすら不要で、みょうじはひとりで、異国の地でピアニストとして生きていくと、決めたのだ。

1年前のように隣で笑いあう日々は、きっともう戻っては来ないのだ。

「――――っ」

歯を食いしばって嗚咽を堪える。
流れる涙を止めることなんてできなかった。

遅い自覚と、とめどない喪失感と無力感。

ああ、そうだ。そうなのだ。
伸ばした手が掴まれることは――もう2度と、ないのだ。

あの晴天の別れの日に。
黒尾の恋は、破れたのだった。



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