部誌10 | ナノ


マグカップ一杯分の感情



顔を見れば、結果が芳しくなかったことはすぐに分かった。彼がいつもと変わらない顔をしていたとしても、なまえは彼の生の演技を、結果を、この目で見ていたのだから知っているのだけれども。ひょっとしたら『今日はお腹を壊してみていなかったんだ』なんて言い訳が通じるかもしれない、なんて思っていた。
品の良いホテルの一室のドアを開いた青年は、整った顔を青くして助けを求めるようになまえを見上げた。
なまえは思わず顎を引いた。
何かを言わなければならない、と考えて、それから選ぶ言葉に迷った。彼、イ・スンギルは無駄口が好きではないから、何も言わなくて良いかもしれないと思いついて、すぐにその考えを打ち消した。
彼は、たしかになまえに言葉を求めていた。
「……グランプリファイナル、残念だったね」
なまえは一番凡庸な言葉を選んで、言葉の凡庸さを補うためにやわらかくわらった。
それに、スンギルは何かを言おうと少しだけ鼻先を上げて、それから瞼をおろして、俯いて、ああ、と短く答えた。
もっと、気の利いた言葉が選べれば良かったのに、となまえは思いながら落胆が表情に出ないように堪えた。
スンギルは、繊細だと思う。彼が、自分の演技に観客は関係ないとそういうのは、それだけの余裕がないからだ。不器用で、実直。一筋にスケートに打ち込んでいて、それゆえに他のことにさくだけの余裕がない。
彼の繊細さがなまえはとても尊いものだと、そう感じていた。
スンギルは入って、となまえを部屋の中に招き入れた。
なまえは念の為と持ってきた自分の仕事道具であるヨガマットを抱え直しながら彼の後ろに続いた。
なまえの仕事は、スポーツ整体師だ。スポーツアスリートに整体を行う仕事。時々、スポーツトレーナー兼。一般人向けのダイエット指導なんかもしたりする。最近はそちらのダイエット指導のほうの仕事が当たって、少しだけ実入りが良くなった。
なまえが今日、ロシアにやってきたのは、フィギュアスケートを観戦するためだ。完全な私用、そしてバカンス。ダイエット事業のおかげとも言える。
そのなまえが、バカンスに仕事道具を持ってきていたのは、もしかしたら、と少しだけ思ったから、だった。
なまえは昔、少しだけスンギルの整体をしていた。少しだけだ。なまえの腕が悪かったわけじゃなくて、彼のホームリンクとか、コーチとの兼ね合いで彼がなまえの患者だったのはほんのすこしの間だった。
スンギルがなまえの患者でなくなったあとも、不思議となまえはスンギルと連絡をとっていた。人付き合いが苦手なスンギルに珍しく、訥々と、シンプルでそれでも彼の内面をたしかに伝えてくる文面が好きだった。

少しづつ、確実に。感情が滴り落ちて、どこかに溜まっていくみたいだった。

一番最近、スンギルにあったのはSPの前だった。ロシア大会を見に行って観光もすると伝えたら、スンギルから会わないか、と提案があって、ほんの少しだけ会って、チェーンの飲食店で話をした。
スンギルはあんまり自分から進んで話をするタイプではないから、ずっと喋っていたのはなまえだったけれど、どことなく彼も楽しそうにしていたと、なまえは思う。

勘違いをしてしまいそうになる。

『仕事を頼んでもいいか』

というメールが来て、本当なら受けないはずなのに、なまえはそれにイエスと返した。知り合いだから、良いのかもしれないけれど、彼の身体の価値を考えるなら、なまえは受けるべきではなかったかもしれない。

でも、なまえは、スンギルに会いたいと、そう思ってしまった。

「マットはあったのに」
スンギルはそういう。彼はスポーツ選手なのだから、柔軟をするためのグッズは当然持っていただろう。
「……まぁ、一応、ね」
なまえは頭の後ろに手をやって誤魔化しながら、スンギルが床に敷いてあったマットの上に横になるのを見届けた。
ロシアの冬は寒いけれど、室内は温かい。スンギルはなまえを出迎えたときは、ジャケットを羽織っていたけれど、今はインナーだけを付けている。なまえも羽織っていたコートを脱いで、ホテルの調度品の椅子の背にかけた。

彼の身体に触れるのは久しぶりだ。その上に、スンギルがなまえの患者であった期間はそう長くない。だけれども、なまえはスンギルの身体のことをよく覚えていた。

不味い、かもしれないと、彼の腰に触れながらなまえは思った。

「……んっ、」

くぐもった声が聞こえてくる。加減は間違えていないし、心得ているから、だから、技術的な問題が、あるわけではない。

触れた瞬間。気づいてしまった。
少しづつ溜めていった感情の、容れ物が、思ったより小さかった、ということに、気づいてしまった。
バケツくらいのサイズがあるかもしれないと思っていた。だけれど、実際はコップほどの大きさしかなかった。
もっと早く気づくべきだった。
溢れかえってしまう前に気づくべきだった。

「……スンギル、」

ひとつ、終わらせても問題が無いところで区切りをつけて、なまえは両手を肩よりも高く上げて身体を引いた。前かがみにならないように気をつけながら、今日着ていた服がゆったりとしたシルエットで、裾が長いことに感謝した。
うつ伏せになっていたスンギルが、いつもと違う手順を訝しんで顔を上げた。彼は部屋の入り口でなまえを迎えたときの、迷子みたいな顔のままだった。
「……ごめん、これ以上、出来ない」
首を左右に振って、はっきりと言った。今日の自分はあまりにもボキャブラリーが乏しい。必要なだけの言い回しが何一つ出てこない。
「何故?」
英語で短く問いかけたスンギルに、なまえは何か、上手い言い訳はないか考えて、それから、諦めた。口を引き結んで首を左右に振る。
「……俺の、問題。ごめん」
「……いや、無理を言ってすみませんでした」
スンギルはそう言ってなまえに頭を下げた。彼が謝る意味がわからなくて、状況もよくわからないまま自分が混乱していっていることに気づいた。
「本当は、整体は必要なかったんです」
気づいたんでしょう、とスンギルはそう言った。そして、そこで、それは、当然だ、と改めてなまえは気づいた。当然、韓国の人気スケーターに専属のトレーナーが付いていないはずがない。なまえが出る幕は、無いはずだった。
気づいていなかったことを肯定することに気が引けて、なまえは首を縦にも横にも振らないままに目線を背けた。
スンギルがマットの上で膝を抱える。自分の膝を抱えて背中を丸める姿が寂しげで、悲しげで苦しかった。
「……なまえさんに、会いたくて、嘘を付いたんです」
可愛いことを、言ってくれるな、となまえは思う。彼の思慕が今のなまえには重すぎた。不自然に上げたままだった両手を下ろしながら、なまえは、そうか、とだけ答えた。
スンギルは、なまえの劣情に気付いていない。気付いていたら、彼がこんなふうになまえを慕うことはなくなるだろう。
「……飲み物を、飲んでいきませんか」
もう少し居て下さい、とスンギルが言う。なまえは少しだけ笑って「わかった」と、仕方ないという、彼の兄貴分に見えるようなそんな表情を心がけて作った。
その表情に安堵しているスンギルに、胸が軋むように痛んだ。

スンギルがなまえに用意したのは、ココアだった。お湯を注ぐタイプのインスタントココア。ロシアの寒い冬によく合う、飲み物だとなまえは思った。
彼が差し出したマグカップを受け取りながら、なまえはSPの後にリンクに投げ込まれた大きな犬のぬいぐるみを見ていた。
スンギルは犬を飼っている。時々、犬の写真をなまえに送ってくれる。その犬によく似たぬいぐるみだった。彼のファンが彼のために購入したのだろう。
目の前にいて、なまえと同じマグカップを持っているスンギルは、メールで受ける印象そのままだ。なまえが好きなスンギルがそのまま、座っている。彼のそういう表裏のないところが好きだった。

感情が、コップいっぱいになっているのなら、逆さまにしてしまえば、全部なくなってしまって、前のなまえに、戻ることができるのだろうか。

マグカップのココアに、息を吹きかけながらなまえは考えた。このマグカップの上下を逆さまにするのはとても簡単なことだったが、心の中のカップを逆さまにするのは骨が折れそうだ、となまえは思った。
いや、多分。マグカップを上下逆さまにすることも、なまえには出来ないだろう。だって、これはスンギルがなまえを引き止めるためにいれてくれたものだから。零してしまうことなんて、できるはずがない。
そう、心の中で訂正を入れてなまえは目を閉じた。

ひどく、憂鬱だ。となまえは思う。
ひどく、心地よい。となまえは思う。

どちらが本当の感情なのかわからないまま、なまえはその感情が何処かに滴り落ちて、溜まっていく気配を感じていた。



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