部誌10 | ナノ


マグカップ一杯分の感情



 世良家は一般的な家庭とは少し違うのだと、小学校に上がった真純は幼いながらにぼんやりと感じ取っていた。
 真純は父親の顔を知らなかったし、家を知っている同級生の誰よりもセキュリティの整った立派なマンションに住んでいた。イギリス人の母親を持つことも、友人たちとは違う。高校生の兄よりもさらに上に、真純の知らない兄がいるとも聞く。家に学校の友人を招いてはいけないと言われているわけではないのに、それをすることを躊躇してしまうようなうすい緊張感が、つねに家族を包んでいた。
 真純がそれを嫌だと思うことはなかったが、その理由についてはいくら頭を捻ってもわからなかった。

 そんな世良家に出入りする数少ない部外者が、世良家次男秀吉の友人であるなまえだった。
 なまえは秀吉の高校の同級生である。穏やかな物腰で、幼い真純にも丁寧に接してくれる。真純の兄は身内贔屓でなく整った顔立ちをしているが、その秀吉と並んでも、なまえは見劣りしない涼やかで綺麗な容姿をしていた。柔らかな態度と相まって彼の育ちの良さが滲むよう。
 はじめ、秀吉とテスト勉強をするとかで世良家を訪れていたなまえだったが、訪問の回数を重ねるうちに真純と顔見知りになり、休日には秀吉と真純と三人で出かけることもあった。気難しい母は最初、なまえの訪問をあまり歓迎していなかったようだが、数を重ねるうちに母の方が折れた。もっとも真純の母は仕事で家を空けがちで、なまえと直接会ったのは三度かそこらだったが。
 なまえといると、真純は兄が増えたような感覚を抱いた。秀吉に甘えるように、なまえにも甘えたし、なまえのほうも妹のように真純を可愛がってくれる。
 そうやって親しくするうちに、いつのまにか、真純が夜遅くまで一人で留守番をしなければならない日に、なまえが世良家を訪れるようになっていた。真純の母は不在がちであったし、秀吉も将棋の試合や練習で帰宅が遅くなることがしばしばだ。そんなとき、秀吉から連絡を受けたなまえが真純の世話をしにやってくるのである。
「今日はミートボールスパゲティを作ろうか」
 そう言って、慣れた手つきで真純のための夕食を作ってくれるのだ。彼の作る料理は完全に真純の舌に合わせられていて、ハンバーグやオムライスなど、レパートリーは子供向け料理の見本のようだった。もちろんカレーは甘く、しかもにんじんは星形だ。
「ボクね、なまえくんのごはん大好き!」
「そういわれると作り甲斐があるよ。ありがと」
 調理をするなまえの腰に抱きつきながら、こんなやり取りを幾度となくした。そして真純と二人で夕食をとり、しばらくして秀吉が帰宅すれば彼に食事を用意して、なまえも自宅へ帰っていく。そんな日が週に二、三度はあった。
「いつも悪いね」
「気にするなって、おれが好きでやってることだから。真純ちゃんと会うのも楽しみだし」
 秀吉たちがそういうやりとりをしているのを何度か見かけたが、申し訳なさそうに眉を寄せる秀吉とは反対に、なまえは嬉しそうに目を細めて秀吉を見ていた。真純は仲良しな兄たちを邪魔してはいけないとこっそり見守りながら、その様子にわずかな違和感を抱く。
 ――なまえくん、笑ってるのに、さびしそう。
 なぜそんなことを思ったのか、それは直感としか言いようのない。
 真純はなまえのことが大好きだったから、いつもなまえを見ていた。大きくなったらボクがなまえくんをお嫁さんにするんだと言い張るくらい、彼のことが好きだった。だから、気付く。真純がなまえのことを好きなように、なまえも秀吉のことが好きなのだと。

 夕食のあと、なまえは必ずコーヒーを淹れた。インスタントコーヒーにお湯を注ぐだけだったけれど、真純のぶんには好みを完全に把握して分量で砂糖とミルクが入っている。真純のマグカップは母がイギリスで買ってきたもの、なまえのマグカップは秀吉と真純となまえの三人で出かけたときにみんなで選んで買ったものだ。なまえくんのカップも置こうと言い出したのは、真純である。
 まだ熱いカップを慎重に手で包み、真純はコーヒーが適温になるのを待つ。熱すぎても火傷をしてしまうし、温くても美味しくなくなってしまう。真剣なまなざしで薄い茶色の液面を見つめる真純に、テーブルの反対側でなまえが笑った。
「そんなにずっと見てなくても」
「だって、せっかくなまえくんが作ってくれたコーヒー、おいしくなくなったらもったいないよ」
「ありがとう。でももうちょっと経たないと冷めないと思うよ。あと三分くらい」
 指を三本立てて諭され、真純はようやく視線を上げた。マグカップをテーブルに置き、湯気ごしに向かいのなまえの顔を見遣る。
「真純ちゃんは本当にそのコーヒーを気に入ってるね」
「うん、だってなまえくんが淹れてくれたやつだもん。ボク、なまえくんのことすきだから、なまえくんの作ってくれるものも全部すき!」
 食い気味に主張すれば、なまえはブラックコーヒーを飲みながら「ありがとう」と笑うだけだ。「おれも真純ちゃんのことが好きだよ」
 返された言葉に、真純はむっと口を尖らせた。いくら真純が幼いとはいえ、なまえの言う「好き」が、真純の欲しい「好き」とは違うことなんてわかっている。うそつき、本当は吉兄さんのことが好きなくせに。
「……なまえくんは、ボクより吉兄さんのことが好きなんでしょ」
 彼は黙って、困ったように笑うばかり。
「なまえくんは吉兄さんのことが好きだからこうやってボクの家に来てくれるんだって、ボク知ってるんだよ」
 じっとなまえを見つめて告白すれば、彼は深呼吸を二回して、コーヒーを口にした。それから「真純ちゃんは敏い子だね」と呟いた。
「秀吉なんか、全然気が付かないのにさ。やっぱり女の子って、そういうところには敏感なのかなあ」
 けらけらと笑って、なまえは真純の頬に手を伸ばした。小学一年生の柔らかい頬を、男子高校生の骨ばった手がやわやわと揉んだ。戯れ、慈しむように。
 真純が見た中でとびっきりに優しい微笑みで、なまえは「ごめんね」と謝った。それは真純の好意に応えられないことへの謝罪か、もしくは秀吉のそばにいる理由として真純を利用していたことについてか、その両方か。どちらにしろ謝られたところで、真純は怒ることも泣くこともできずに「いーよ」と呟くしかなかった。
「ほんとに、ごめん」
 もう一度繰り返して、なまえの手は真純の頬から離れていった。その手を追えずに俯いてしまった真純は、沈黙を誤魔化すために冷ましていたコーヒーに手を伸ばす。
 いつのまにやら温くなりすぎていたコーヒーを口に含むと、砂糖とミルクの味が甘ったるく、舌にまとわりつくようだった。今度からブラックに挑戦してやる、と小さな胸のうちで真純は誓う。



prev / next

[ back to top ]



「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -