部誌10 | ナノ


花束とハイヒール



ギターを持ってもダメ。フルートを構えてみてもダメ。バイオリンを構えてもダメ。ピアノの前に座ってもダメ。
ダメダメ尽くしで腹が立つ。
それでも締め切りは待ってはくれないから、俺は携帯に手を伸ばした。

「やぁ、ヴィクトル。久し振り。練習中だった?」
『なまえ!久し振りだね。今は休憩中だから問題ないよ。と言っても、俺はコーチなんだけどね』
「ふーん。コーチかぁ。……コーチ?」

聞き慣れた声に表情が緩みつつ、飛び込んできた単語に目を瞬かせた。
コーチだって?ヴィクトルがコーチ?

「え?コーチ?」
『そう。ユーリのコーチになったんだよ』
「ユーリって?プリセツキー?」
『違う、違う。ユーリ・カツキだよ。前にも話ししただろ?』
「……あ、あー、あぁ、あの子か。君にコーチになってくれ〜って言った子」
『そう。そのユーリ』

楽しそうにヴィクトルの声が跳ねている。
件のバンケットの話はこの前ヴィクトルに会った時に聞いていた。
その時のヴィクトルも楽しそうに笑っていたけれど、きっと今も同じように笑ってるのだろう。

「え。ちょっと待って。コーチってことは今シーズンは出場しないのか?」
『そうだよ?』
「えー…。お前が滑ってるの見るのが俺の数少ない楽しみなのにー」
『あはは。別の楽しみ探さないとね』
「簡単に言ってくれるな…」

思わず鍵盤の上に突っ伏せば、ピアノが不協和音を奏でる。俺の心模様そのものだ。
曲作りに詰まった時、ヴィクトルの滑っている姿を見るのがいい気分転換になったというのに、なんてことだ。
でも、本人がコーチをやると決めたのなら仕方がない。

「うーん。それじゃあヴィクトルのエキシビション曲勝手に考えるのは無しかぁ…」
『また詰まってるのかい?』
「そうなんだよ…」

毎年ヴィクトルのエキシビションのテーマだけ聞いて、気分転換に何本か曲を作るのも俺の気分転換方法の一つだ。
それもできないとなると、ヴィクトルに電話を掛け続けるのも半ば無駄になる。

「んー?ユーリ・カツキのコーチってことはデトロイトに居るのか?」
『いや。今は日本のハセツに居るんだ。ここはすごいよ!とても広い風呂があるし、とっても美味しいカツ丼がある。君も一度来てみるといいよ』
「日本のハセツねぇ…」
『そういうなまえは?』
「今は仕事の関係でニューヨークだよ」
『じゃあ、いつハセツに遊びに来るんだい?』
「どの文脈で俺がハセツに遊びに行くって話になったんだ?」

軽口を叩くヴィクトルとの通話をスピーカーに切り替えて出掛ける準備をする。
これは気分転換というよりもインスピレーションに会いに行く行為に近い。

「……まぁ、時間に余裕が出来たら遊びに行くよ。その時はハセツとかユーリの話、詳しく聞かせてくれ」
『あぁ。…君は今から“ミューズ”の所に行くのかい?』
「そうだよ。来てくれないなら探しに行くしかない。じゃ、また連絡するから」
『うん。それじゃ』

通話を終了させ、鏡の前に立つ。
鏡の中で微笑むのはそれなりの美人。と言っても女装をした俺自身。
以前、曲作りに詰まった時に街を歩き回り、偶然耳に入ったハイヒールが道路を叩く音に触発されて曲が出来ることがあった。
その後も何度か同じことを経験してから、ハイヒールを履いた人間を探すのではなく、自分で履いて歩き回れば良いということに俺は気付いた。
けれど、そうやすやすと曲のイメージが降りてくるわけではないからしばらくハイヒールで歩き回る羽目になり、その俺の姿は周りから奇異の目で見られることが多かった。しかも、度々職務質問に捕まることもあった。
ならば、ハイヒールを履いて歩き回ってもおかしくない格好をすれば良いのだという結論に俺は辿り着いた。
そうして、曲作りに詰まった時に女装して街を彷徨く事を“ミューズに会いに行く”と表現するようになった。
腐れ縁の長いヴィクトルは俺の行動パターンをある程度把握していて、気が向いた時は俺の気分転換に付き合ってくれる。
どっちもロシアにいた時は他愛もない話をしながら一緒に歩き回ることもあった。
パパラッチにすっぱ抜かれた時はヤコフに怒られたけど。

「さて、今回はミューズにどこで会えるかな」

音が鳴ってないウォークマンに繋がっているヘッドホンをつけて、ニューヨークの街に俺は躍り出た。
いつもと同じニューヨークの街並みを目的もなくふらふらと歩いていく。
通りによってわずかに異なるハイヒールが立てる音に耳を澄ませながら、気になる音がする方へ歩いていく。
ミューズはまだ、見つからない。
音に集中すれば集中するほど、景色は遠のいていき、見慣れぬ場所に出ることはいつものことだ。
不意に足元が滑って見上げた景色は見慣れぬビルの谷間で。空は霧がかかってどんよりとしている。
はて。今日はそんな天気だっただろうか?
足元を見れば道路が凍っている。どうやら凍っているのに気付かずに滑ったらしい。
あれ。今の季節って道路が凍るような季節だっただろうか。

「お嬢さん、大丈夫かな?」
「……ハラショー」

不意に差し出された手を見て、差し出した手の持ち主を見て、その心地よい声を聞いた俺の中で、堰を切ったように音楽が流れ始めた。
状況を確認して、彼の手を取って立ち上がってる場合じゃあない。今ここで巡り合ったミューズの手を離すわけにはいかない。
失礼は百も承知で鞄にしまってあったボイスレコーダーと楽譜の束を取り出して、俺はミューズの手を選んだ。
この音楽を少しでも聞きもらすわけにはいかない。溢れ出したメロディをボイスレコーダーと楽譜に繋ぎ止めていく。

「お嬢さん、ここは危ないからーー」
「ご親切にありがとう、ミスター。でも、今それどころじゃないんだ!」

ボイスレコーダーにメロディを吹き込むのを中断して男の言葉を遮る。
楽譜を埋めていく手は止まらない。いや、止められない。

「いや、本当に……あぁ、くそ。君はどんな状況でもソレを書き続けられるかい?」
「あぁ、例えこの瞬間に地球が滅んでも書き続けられるよ」
「それは重畳。失礼するよ」

不意に身体が持ち上げられた。いわゆるお姫様抱っこの格好にされているのを確認したけれど、今はそれどころじゃない。
手が止まらない。メロディが鳴り止まない。楽譜にこの音楽を繋ぎ止められるんだったらもうなんでもよかった。

「ハラショー…」
「やぁ。落ち着いたかい?」

ようやくメロディを書ききって顔を上げると俺はまだ見知らぬ男にお姫様抱っこをされたままで、心地よい声が鼓膜を震わせる。

「あ、すみません」
「いや、こちらこそ急に悪かったね」

お姫様抱っこから解放されて地面に足をつけた俺は事情が分からないまま彼に頭をさげる。
彼曰く、どうやら俺は危険地帯に居たらしく、そこから離す為にわざわざ俺を運んでくれたらしい。親切にもほどがある。
何かお礼がしたいと思って彼に少しだけ待ってもらってすぐ近くにあった花屋に飛び込んだ。
並んでいる花も店員も客もよく知るニューヨークとは事情が違ったが、小さなブーケはあったからそれを買って彼の所に戻る。

「親切なミスター。ありがとうございます。本当はコーヒーとかお食事の方が良いかもしれないですけど、これを貴方に」
「それは、どうも」

にこりと笑って差し出した小さな花束に彼は少し目を丸くしつつ、受け取ってくれた。
今作った曲のイメージ的にはもっと大きな花束を渡したいところだったがそんなものを用意する暇はない。

「ところでミスター、親切ついでに一つお聞きしても?」
「あぁ、なんだい?」
「ここは、どこでしょう?さっきまでニューヨークにいたはずなんですけど、ハロウィンの街にでも突っ込んでしまったのでしょうか」

首を傾げる俺に彼は目を丸くした。
そうして俺は、今自分がいるのは元ニューヨークのヘルサレムズ・ロットなる場所に居ること。ここに俺が辿り着いた理由はともかく帰り方もわからないことを知ることになる。
そうして、これは俺がこの街で最も仲を深めることになるスティーブン・A・スターフェイズとのとんでもない初対面だった。



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