ひとひら
彼女のそうした変化をボクが気づけたのは、ボクが彼女をずっと見ていたからだ。
彼女が人知れず大輪の花を咲かせ、そして枯らし散らしてゆくその様を、ボクは見ていた。
ボクだけが見ていた。
夏も過ぎ、桐皇に負けた誠凛はWCに向け練習に励んでいた。夏休みの間に二度ある合宿のうち、一つ目を終わらせて学校の体育館での練習に戻ったその日。彼女に出会ったのは、黒子にとって幸運な出来事だった。
「みょうじさん」
手洗い場で顔を濡らしたままの黒子の呼びかけに彼女が――みょうじなまえが立ち止まったのは、恐らく奇跡だろう。それぐらい彼女は他者に関心がなかったし、同じ中学出身である黒子を避けてもいた。
汗のせいかしっとり濡れたうなじが結い上げた髪の間から見えて、不意に鼓動が跳ねた。動揺する心を隠すように、黒子は悟られない程度に数秒、目を閉じた。ゆっくりと振り返るなまえに、やはり鼓動は跳ねたままだったけれど。
「部活ですか」
美術部である彼女が歩いていたのは、美術室への近道だ。確信に近い問いかけに、なまえは冷たく答えた。
「黒子に教えねばならない理由などないよ」
「部活なんですね」
「……やっぱりお前は苦手だ」
眉を寄せたなまえが黒子から視線を逸らした。そのことを寂しく感じながら、久しぶりに目にしたなまえを観察する。少し痩せただろうか。疲れた顔をしているのは恐らく暑さのせいだろう。暑さに弱いひとで、よく夏バテしていたから。色白の肌が少し赤くなっていて、照りつける太陽を少し恨み、羨んだ。
彼女に何かしら影響を与えたいと願うのは、黒子が彼女を見ていることしか出来なかったからだ。
「……青峰くん」
ぽつりと呟くと僅かに揺れる肩。そのことに泣きたいような叫びだしたいような、複雑な気持ちを抱きながら言葉を綴る。
「元気そうでしたよ」
「……そう」
「相変わらず強かったです」
「――――それは、何よりだ」
負けてしまいました。
その一言を口にするのははばかられた。薄く浮かべられた笑みは嬉しそうで悲しそうで。ああ、感情が表情に出るタイプじゃなくてよかったと、黒子はなかなか動かない表情筋に感謝した。でないと酷い顔を彼女に晒してしまいそうだ。
ずっと、ずっと見ていた。大輪の花が花開かせたあの瞬間から、ずっと。
「もう、」
いいんですか。そう続けずとも彼女は黒子の問いかけを理解し、自嘲するように微笑んだ。黒子もその笑みの意味を読み取ったけれど、納得できずに視線を地面に落とした。
あの頃のことを今でも鮮明に思い出せる。
中学二年生だったなまえは学級委員長で、青峰は彼女のクラスの問題児で。よくサボって授業に出ない青峰を、彼女はよく探しに行かされていた。優等生と問題児ははじめは仲が悪かったものの、それでも何がしかの絆を築いていた。
(馬鹿は高いところが好きというが、本当らしいな、青峰。探しやすいのはいいことだが、わたしに手をかけさせるなよ)
昼休み、青峰と昼食をとっていた時に乱入された時、黒子にとって彼女はただの青峰のクラスメイトでしかなかった。
「お友達? 悪いな」と、視線を合わせて謝罪と共に微笑まれた時に、恐らく黒子の中で芽は出ていた。
けれど彼女の瞳に映るのは青峰だけだった。対等に笑い、ふざけあい、たまに叱りつけたりしながら、青峰となまえの間には誰にも割り込めない何かが出来上がっていった。それはいまだ恋と呼ぶには幼すぎるものであったとしても、確かに情は、芽生えていたのだ。
なまえが花を咲かせたのは、青峰のバスケを目にした、あの時だ。
上気した頬を、煌めく瞳を、力強く握り込まれた拳を黒子は覚えていた。ボールが青峰の手によってゴールに叩き込まれ、揺れるネットを見つめながら吐き出された吐息まで覚えている。
いつもは笑っても頬を緩ませるだけのなまえが、目を細め、歯を見せながら笑った。満面の笑みと称するに相応しい笑みだった。黒子は、なまえの笑顔に、芽生えかけていた小さな花を咲かせた。
(すごい、すごいな、青峰!)
なまえの瞳に青峰しか映っていなくても、彼女の笑顔が見れるならそれでよかった。淡い色の花を抱きしめたまま、いつか腐り落ちるのを待つだけでも構わなかった。なまえの幸せを願った。
今のような、暑い暑い夏だった。
青峰の才能が開花し、青峰にとってバスケがつまらないものになったのは。
楽しくて仕方なかったバスケが、強くなりすぎたあまり楽しめなくなって。授業をサボっても部活だけはサボらなかった青峰が、部活に顔を見せなくなった。試合には出ても、まれに練習に顔を出しても。そこにかつての情熱はなかった。
なまえが胸に咲く花を枯らす決意をしたのは、青峰が情熱を無くしたひと月後だったはずだ。
彼女は青峰にとっての不変を選んだ。バスケへの想いが変わってしまっても、自分だけは変わらないでいることを選んだ。恋になったかつての情は、花は、彼女自身によって手折られ、土深くに埋められた。いつか腐るように、それだけを願って。
あの時も黒子は訊ねた。いいんですか、と。あなたはそれで構わないのかと。その時のなまえの答えも、笑みひとつだった。先程と同じように、自分を嘲笑うかのように。
いつもどおりのなまえに、いつもどおりの反応を返す青峰。おざなりな対応をする青峰の顔には、安堵が見えて。なまえは間違っていなかったのだと思いはしたけれど、納得は出来なかった。それは己の想いを殺してまで青峰を支えようとする彼女の献身への憐憫ではなく、自分と重ねていたのだろう。
黒子はなまえが幸せならば、己の胸に咲いた花を枯らしても悔いはなかった。けれど、なまえは黒子と同じように、花を枯らす決意をした。そのことが悲しかった。悔しかった。そして少し、嬉しかった。そんな自分が嫌でたまらなかった。
結局は、黒子のエゴだった。
友人と決別した黒子は強豪校に行くつもりはなかった。この誠凛を選んだのは、彼女が行くと耳にしたのが大きな理由だった。
青峰の誘いを、通っている絵画教室から遠いからと断ったのを知った時、黒子は悲しむべきか喜ぶべきか迷った。青峰にとっての不変を選んだ彼女の花は、土の中でもなお瑞々しいままなのだと予想できたからだ。
変わらず友人関係を続けていようと、高校が違ってしまえば疎遠になる。それを願っているのだと、分かってしまった。実際高校生になったなまえは青峰との縁を切るように、帝光出身の人間との接触を避けていたし、かつて青峰の相棒であった黒子は最たるものだった。今日の今日まで、彼女と会話はおろか、見かけることすら稀だった。
「……もし、」
WCで、黒子が、誠凛が勝ったら。青峰はあの頃の情熱を取り戻すのだろうか。そうなれば、彼女は、なまえは、埋めた花を掘り返し、再び胸に咲かせるのだろうか。新たな花を咲かすのだろうか。
彼女が幸せなら、と一度は身を引いた。けれどいまだ、黒子の花は咲いたまま枯れることを知らず、むしろ一層大きな花へと成長している。
なまえが好きだ。それはきっとずっと変わらない。この胸に咲く花は、不滅の花だ。
彼女に咲いた花の美しさをいまでも鮮明に覚えている。あの花が自分のために咲けばいいと思う。
たとえひとひらだって、誰かのために咲くのを見るのはもう嫌だった。
「……黒子?」
言葉を放ったまま黙り込んだ黒子を、なまえが訝しげに見ている。彼女の視界に自分がいる。それだけで涙が出そうなくらい嬉しい。こんなにも彼女を想っていたのだと今更気づいた。肥大した想いはとめどなく溢れる。己の胸の奥底にこんな激情が眠っていたなんて知らなかった。
「あなたが好きだ」
なまえが息を飲んだ。驚きに固まる彼女へ一歩、近づく。
「ずっと好きです。今までも、きっとこれからも」
彼女の白い手をとる。びくりと震えが伝わってくる。逃がすまいと指先を絡めた。触れた部分がじわりと熱を持つ。初めて触れた彼女の指先は、細くて、白くて、なめらかだった。
「IHでは負けてしまいましたが、WCでは青峰くんに勝ってみせます」
はじまりを告げる気はなかった。なまえが花を咲かせ、また黒子が花を咲かせた瞬間は、黒子だけのものだからだ。
「そうしたら、ボクのことも考えてください」
おそらく、青峰に勝ったその瞬間、黒子は青峰と同じ土俵に立てる。青峰が否定したバスケで勝つことでようやく、同じ目線で、同じ立ち位置で、なまえと向き合える。
勝ちたい。青峰とのバスケにおける確執だけでなく、勝ちたい理由が増えてしまった。不純かもしれないけれど、思いは強くなった。
「少しでいいんです。青峰くんみたいに想って欲しいわけでもない」
ぎゅう、と指先に力を込める。傷つけないように、離さないように、伝わるように。
「ただ、ボクの想いに向き合って欲しい」
好きだ、好きだ、好きだ。
指先からこの想いが伝わればいいのに、なんて使い古された小説の1フレーズを、実際に思う日がくるなんて想像もしなかった。
「ボクがあなたを想っていることを、頭の片隅に留めておいて欲しい」
そうしてボクを意識して意識して意識して、ボクのことしか考えなくなればいい。
見守るだけでは満足できない。不器用な愛しか知らないなまえのすべてが、欲しい。そのためなら何だって出来る気がした。
「好きです。あなたが、みょうじなまえさんが、ボクは愛しくてたまらないんだ」
たとえひとひらの情だって、誰にも渡したくないくらいに。
黒子の胸に咲くのは大輪の花。
同じ花を、彼女の胸に植えつけたいと、黒子は願ってやまない。
そうしていつか芽吹いた花は、美しい水色の花なのかもしれなかった。
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