ひとひら
空は快晴。気温は平年並み。湿度そこそこ。
粛々と頭の上を通り過ぎていく太陽が飽きもせず投げ続ける光が淡く色づく、昼間と夕方の間のころ。
ざり、と歩道の砂をスニーカーが踏む音で振り返ると、そこには今日も学生服の彼がいる。
「こんにちは」
小さく頭を下げながら微笑む彼に、私もこんにちは、と返してから、手元に視線を戻す。
今朝一番、妻の誕生日祝いに、と時計を気にしながら注文してくださったスーツの男性のご所望は、マーガレットを中心にした清楚な花束。一つ一つ選んだ花を見栄えよくまとめて束ねて、ちょっと考えて淡いオレンジのリボンを結ぶ。よし、完成。
我ながら可愛くできた、と一人悦に入っていると、ふっと影が差して、「すみません」と低くなりきれないやわらかな声が降ってきた。
顔を上げると、小振りの白い一重咲きの花を一本手にした彼が立っている。
「あ、お会計ですか」
「はい」
差し出されたそれを、茎の下の方を少し切ってから、簡単にビニールでくるりと巻いて、茎の切り口をビニールごとアルミで包む。
リボンもシールもない質素な包装は、もう見慣れたものだ。
「これ、ちょうどです」
「ありがとうございます」
小銭を受け取る手と反対の手でそっけなく包装されただけの小振りな花を差し出す。彼はその反対。小銭を掌に落とした指が一瞬だけ、私の手の平に触れて、離れていった。大事そうに抱えられた花弁の白が糊の効いていそうな学ランに映える。
「じゃあ」
「毎度ありがとうございます」
頭を下げた私に、学生服の彼はいつも通り小さく微笑みながら会釈を返して、去って行った。これも、見慣れた光景。
今日はイタリアンホワイトで、昨日はサンリッチオレンジ、一昨日はヒメヒマワリ。特別な包装はいいですから、と桜の散る頃に初めてここを訪れた時に言った彼は、毎日、学校帰りなのだろうこの時間にこの花屋に来ては、毎日違った種類の向日葵を一本だけ買って行く。
何のために、誰のためにそんなことをしているのかは、数か月毎日顔を合わせているのにも関わらず、未だに謎のまま。聞く気もないのだから、当たり前といえば当たり前だけれど。
例えば、もし、あれが誰かへのプレゼントだとしたら――。
手持無沙汰に飽きて店先のバケツに入った花達を見栄えよくなるようちょいちょいと位置を調整しながら、なんとなくそんなことを考えてみる。
すっきりした目元の、まだ幼げな彼。今時の男の子のイメージからは程遠い、一輪の向日葵がよく似合う彼。未だに名前さえ知らない、彼。
薄っすらとした夕焼けの光を浴びた微笑みを不意に思い出して、ついちょうど手にしていた花から意識が逸れてしまった。
ぷつ、と小さいけれど嫌な音がして、あっと足元を見ると、ガーベラの赤い花弁のひとひらが落ちてしまっている。
「あー……」
しゃがみこんで、花芯と泣き別れになってしまった哀れな花びらを摘まむ。ごめんね、注意力散漫で……。
まだ瑞々しいそれを掌に乗せて立ち上がると、不意に風が吹いて、もう大分橙に染まってしまった空に誘われるように、紅色の花弁はふわりと飛び立ってしまった。
空に滲んだ橙に溶けこむように、小さな小さな赤はすぐに見えなくなってしまう。種も伴わない、小さな花の欠片は、どこへ向かうのだろうか。
ぼんやりと、流れていく雲しか見えない空を眺めていた私は、「あの、」という低い男の人の声にはっと我に返る。
振り返ると、今朝マーガレットの花束を注文していったスーツの男性が立っていた。
「あっ、今朝ご注文頂いた――」
「そうです。注文してた花束は……」
「はい、出来上がってますよ」
にこりと笑って、店の奥へと男性を案内する。
小さな花屋だから、今日の業務はこれが最後だ。
空はもうすっかり熟れきって、もうじき夜が来る。
日が沈んで、月が巡って、もう一度日が昇って。
それが落ちる頃、きっと明日も、彼は来るだろう。
明日はどんな向日葵を買って行くだろう。
ひとひらひとひら、小さな花弁を集めるように、とりとめもないことを考えながら、わたしは今日最後のお客様に花束を差し出した。
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