部誌1 | ナノ


ひとひら



遅咲きの桜の花弁が目の前を横切った。
まどろみの意識がふいと浮上した。
遅咲きの桜も夏の初めを過ぎたこの頃には命を散らして泣いていた。
風が吹く度にひらひらとまう淡い桃色に家康は思いをはせる。

あの夜も二人きりで、こうして散り急ぐ桜を見に行ったのだ。


幼いころより国のため民のために人質として他国で過ごすことを余儀なくされていた家康にとって、味方という人は少なかった。
三河から付けられていたのは大人の人間であり、仕方はないが同年代の人間と遊ぶのは無きに等しかった。
それを見た今川義元は哀れに思ったのか、それとも多少の恩を売っておきたかったのか。
真意はさておき、一人の女中の娘を彼に遊び相手としてあてがった。
自分と一つ二つ下だろうか、とにかく二人は共にいるのがほとんどになった。
家康としては遊び相手が出来たし、彼女にとっては母親が仕事をしている最中につまらないのがなくなったのだ。
今川軍が織田軍によって滅んだ時は家康自ら信長に温情を希い、彼女を女中として織田に置いていただけることになった。
だが彼女は元今川の人間。今までのように家康専属という形では居られなかった。
それは家康の主が織田信長から豊臣秀吉に変わっても同じだった。
そして彼女は女中として、家康は武将として圧倒的な差が出来た。
家康が功績を挙げ、彼女が周りに受け入れられるようになるたびにそれは狭まるばかりか大きくなるばかり。
そして程なくして彼女には婚姻の打診が入る。
もとより薹が立った彼女をもらう人間はいないと思っていたが、竹中半兵衛の計らいでもらい手が見つかった。
この計らいが家康の周りから崩すためなのかはわからないが、これに彼女はなにも言えなかった。
そして家康も。
反対することも賛成することも、自分がと言うことも出来なかった。
そして明日、彼女は大阪城から嫁ぎ先へと向かう。
もう、一生、会えないだろう。
だから最後にもう一度だけ、肩書きなんてほおって、昔みたいになりたい、と。
そう言って、家康は彼女を連れだしたのだ。

「…きれい、ね」
小高い丘に佇む桜の大樹。
月明かりに照らされたそれは、時折吹く風に花弁を渡しながら揺らいでいる。
幹を背に家康がすわれば、彼女もまた隣に座る。
しばらくなにも言わず、二人は月と闇色と、それに輝く桜を見つめる。
最初に口を開いたのは彼女の方だった。
「久しぶりね、こんな風に居れるの」
その言葉に家康は頷いた。
今川から織田に変わってから一体何年たったのだろう。
その間、たまに会うことはあってもこのように同じ場所・時間を共有することなど無かった。
「明日…行ってしまうのだな」
「うん。相手の方はいい人そうよ」
彼女はすでに行くことを納得している。
当たり前だ。むしろ断れない。
「ワシ…ワシな」
「うん」
いつも通りに喋るんだ。泣くな。泣いて困るのは、彼女だ。
「初めて会った時に…その時から、好きだ」
「……うん」
二人とも、顔は見れない。
「だから…すまん、ずっと言えなくて。引きとめることもできなくて」
武将として、国主としての跡継ぎは必須。だがそれは同じく国主の娘や姉妹でなければならない。
なぜなら婚姻もそれは政の一つであり、同盟を結ぶ際の大きな一手となるものであり、それに身分が低い女中を宛がうことは出来ない。
「私も、好きだった。ごめん、嘘にすることも忘れることも出来なかった」
彼女も重々承知。
責めもしないその言葉に余計に家康の胸が痛む。
足元に降り積もる花弁のように積もった恋の心を土足で踏み荒らす感覚。
見てはいけないのだと、その足で踏むのだ。
そうしなければいけないのだ。
そうと手を伸ばせばひらりと花弁が掌に落ちる。
「あのな…最後に渡したいものがあるんだ」
その言葉に彼女は家康にやっと顔を向ける。
家康はちゅ、と掌の花弁に口付けを落とす。
それを摘み、彼女の唇に、優しく押し付けた。
一瞬、だった。
花弁越しに彼女の唇を感じ、家康はそっと指を離す。
軽い花弁はすぐに風で飛ばされる。
「いえや」
「これだけ、でいいから」
驚く彼女の言葉を遮って家康は笑う。
「ワシの気持ち、花弁一つ分だけ、持って行ってくれ」
泣きそうな、それを隠すような笑顔に彼女はこくりと何も言えずに頷いた。
家康はその答えにまた顔を上げる。

月と夜闇と輝く桜。
家康の思いを乗せたひとひらの花弁は、闇の中に消えた。




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