部誌1 | ナノ


ホットチョコレート



かちかちと時計の秒針が進む音がやけに大きく聞こえる。長針と短針は先程重なって0時を示した。仕事を終えて六畳と少しのアパートへ帰宅し、なんとか着替えてベッドの上に寝転がったのは一時間も前のことだ。明日も仕事があるのだから早く眠ってしまわなければと自分に言い聞かせるが、電気を消してしまうと心細さに涙をこぼしてしまいそうに思えて、枕元のリモコンに手を伸ばすことができなかった。ごろんと寝返りをうち、布団の上で胎児のように手足を丸める。落ち込んでるなあ、私。
数時間前、愛梨は生放送の歌番組に初出演をした。ぺーぺーの新人の為に、信頼するプロデューサーが必死でもぎ取ってきた出演枠だった。ゴールデンタイムの生放送に出演し、持てる力の限りで歌えば、十時愛梨の名を全国にアピールすることができると、番組に向けていつも以上にレッスンに励んだのだ。同じ事務所のアイドルたちも応援してくれた。愛梨は自信を持って生放送に臨んだのである。
しかし、結果は惨憺たるものだった。その番組には961プロの誇る人気男性アイドルユニットも出演しており、愛梨の直前に彼らが歌を披露してしまったのだ。スタジオも、全国の視聴者も、一瞬にして呑み込んでしまうような圧倒的な渦。その力強さと勢いに目を奪われ、一瞬で「敵わない」と悟ってしまった。自分では彼らのようには輝けない。酷い挫折感を抱いた。彼らの後のステージ、愛梨は膝が笑うのを、声が震えるのを、笑顔が強張るのを抑えられなかった。彼らの輝きに、完全に呑まれた。挙げ句の果てに、ステージ上で転倒。十時愛梨なんてこんなものかと皆が笑っているように思えた。
今日はもう休めというプロデューサーの指示に従ってテレビ局から直帰したが、眠気はやってきそうにない。大学進学の為に上京し、慣れない都会でプロデューサーからスカウトされた。夢に溢れた日々を送っていた愛梨は、一人暮らしが寂しいと、初めて思った。

「私なんかじゃあ、トップになんてなれないのかなあ……」

横になったまま膝を抱え、長いため息をつく。誰かと話して不安を紛らわせたかったが、こんな時間に友人に電話する訳にもいかない。仕事で疲れているだろうプロデューサーなんてもっての他だ。静かな部屋には時を刻む音が響くばかりで、愛梨はぎゅっと目を瞑り、孤独感をやり過ごそうとした。

そのとき、唐突にインターフォンが来客を告げた。

「え?」

愛梨は驚きに身を起こす。時刻は午前0時半。こんな時間に来客の予定はない。連続して鳴るインターホンに「不審者」「ストーカー」の文字が頭をよぎり、手元の携帯を握りしめて身を硬くしたが、ドアの向こうから聞こえた声は知ったものだった。

「とと姉、俺だよ、なまえ。居るんでしょ? 開けて」
「えっ、うそ、なまえくん!?」

聞き慣れては居るが、懐かしい声だ。それは確かに幼馴染みの少年の声であるが、同時にこの場で聞くはずのない声である。平日の深夜、なまえが愛梨の部屋を訪れるなど。
混乱する頭のまま、チェーンロックのかかった玄関扉を恐る恐る開ければ、確かに幼い頃から見知った顔が待っていた。はっきりした目鼻立ちの少年は、愛梨の実家の近所に住むなまえに違いない。しかしその格好は愛梨の記憶の中の彼には掠りもしないものだった。

「俺の格好のことはいいから、早く入れてよ。外寒いんだから」
「ご、ごめんね! いま開けるから……」

一度扉を閉めてチェーンロックを外し、言われるままになまえを招き入れる。肩にボストンバッグを提げ、手にコンビニの袋を持った彼は愛梨を押し込むように部屋に入り、後ろ手に施錠してしまった。なんで、なまえがここに? それにどうして――どうして彼は、女の子の服を着ているのだろう。
ぽかんとなまえを眺める愛梨に、彼は呆れたように腕を組み、不自然に視線を逸らした。

「……とと姉、パンツ、穿いてる?」
「あっ、えっ、は、穿いてない……です……」
「やっぱり。どうせブラジャーもつけてないんでしょ。突然押しかけた俺も悪いけど、その脱衣癖、どうにかしたほうがいいんじゃないの。Tシャツの丈が長くて助かったね」

ボストンバッグを床に下ろし、スニーカーを脱ぐと、なまえは家主を抜いて台所へと向かう。

「ちょっとキッチン借りるから、その間に下着つけちゃってよ」
「う、うん」

なまえに従ってクローゼットから下着を出すが、その間も愛梨の目は小さな台所に立つ幼馴染みの姿を追っていた。どうして、どうしてと疑問ばかりが脳内を埋め尽くす。白いハイネックセーターにえんじ色のジャンパースカートの彼は、愛梨の混乱を余所に何かを調理し始めている。冷蔵庫から牛乳を取りだそうと腰を屈めるなまえに、結構短いスカートだなあとぼんやり考えた。それほど髪の毛の短くない彼は、ショートカットの女の子と言っても十分通じるだろう。

「なまえくん、なんで女の子の服着てるの?」

脳内で容量を超えた疑問が、ぽろりと口に転がり落ちてきた。愛梨の問いになまえは作業の手を止めずに答えた。

「なんでって、夜中に男がアイドルの部屋を訪ねるなんて大問題だろ。特にとと姉は今が大事な時なんだから。だから、女の格好」
「はあ」

問題だと思っているのに、わざわざ愛梨の部屋を訪れたという彼に、疑問はますます深まる。

「えーっと、じゃあどうして東京にいるの?」
「とと姉に会いに来たんだよ。……テレビ、見てたから」

テレビ。どきんと胸が跳ねた。きっとさっきの歌番組だろう。秋田の両親やなまえには、出演することを伝えてあった。あの失態をみんなに見られちゃったんだ。膝の上でぎゅっと手を握る。

「あはは、あれ、酷かったでしょ? 961プロの人たちが凄くて、私緊張して大失敗しちゃって……」
「うん。だから、とと姉落ち込んでるんじゃないかって、飛行機で文字通り飛んできた。番組が終わるときには、もうタクシー拾って空港に向かってた」

くるりと振り向いたなまえの両手には、湯気の立つマグカップがあった。年上の愛梨よりずっと冷静な彼は、何を考えているのか読めない顔で、ことんと愛梨の前に甘い香りを漂わせるマグカップを置いた。ホットチョコレート。寒い秋田の冬にしばしばなまえが振る舞ってくれたものだ。

「俺にできることなんて、これくらいしかないけど。でも、とと姉を応援してる気持ちは、誰にも負けないつもり」

なまえの瞳がまっすぐに愛梨を見つめる。

「トップになるんだろ。その為に頑張ってるんだろ。それなら、こんなとこでめげてる場合じゃないはずだ」

その瞳は、ひたすらに「頑張れ」と言っていた。俺は十時愛梨の力を信じているからと。

「俺は十時愛梨のファンだ。アイドルならファンに応えてみせろよ」

マグカップを持つ自分の手が、熱くなったように思えた。このホットチョコレートは自分を応援してくれるファンからの気持ちなのだ。応援してくれるファンがいるのに、アイドルが勝手に挫折して、勝手に諦めていいとは思えない。

「……うん。ありがとう!」

愛梨は甘くて温かいチョコレートを存分に堪能した。そして、明日になったらプロデューサーに会って、オーディションを受けさせてもらえるようにお願いしてみよう。



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