部誌1 | ナノ


ホットチョコレート



 この世界に来て、理人は周囲から悪魔の僕だという悪名をつけられて以来、優秀で敬虔な修道騎士であるレナードの元へ隔離されていた。囲われる生活は当初思い描いていたことよりもずっと普通だったが、悪魔は悪魔らしく、勝手に麻薬扱いされているチョコレートもといカカオをこの一手に委ねられることになった。
 レナードの監視の目は鋭いはずだった。理人は本人の知らないところで、無意識に監視者を手なずけ絆してしまい、その目をカカオの魔術によって甘やかしてしまった。
 そういったことに一度慣れてしまうと、あとは転がる石のように深みにはまって抜け出せなくなってしまう。
 今ではすっかり保護者のような立場で、理人は時折訪れるレナードのネガティヴに付き合うことが習慣となっていた。
 レナードは堅苦しい口調、冷たいほどの美貌を持ち合わせていながら、心を傷つけられることや恥ずかしいことに耐性がなく、涙腺が緩んでしまう性格だった。身体の痛みには鈍い半面、心は繊細にできている。
 今晩がちょうどその時だった。
 当番明けのレナードを玄関先で出迎えたはいいものの、理人は話しかけようとしていた言葉を失った。
「レナード……」
 あまりにも落ち込んだ雰囲気で、朝に見送った時とはまるで違う。どうしたというのか、微かに震えてさえいる。とにかく中に入れないと、と理人が後ろに下がろうとした途端、小さくレナードが呟いた。
「……て……れ……」
 レナードの指先が理人の袖に触れ、豆痕のある掌が腕を掴む。そのまま引き寄せられて、レナードの腕の中に閉じ込められた。後からじわじわと力が増し、理人の身体を締め付けていく。その痛みに耐えかねて理人が押そうとした時に、ふと違和感を感じた。
 肩が濡れている。薄いシャツ一枚越しに温かい湿りを感じた。耳を寄せれば微かに聞える嗚咽。それを聞いて心が騒いだ。
 レナードの見せる表情からは少しも予想できないそれに理人は些かの緊張を帯びた手で、レナードをそっと包むように抱きしめた。
「レナード、どうした?」
 できるだけ優しい声を心がけて理人は尋ねた。
 それでもレナードは何も語らず、鼻をすんすんと啜って嗚咽を微かに漏らしている。これは困ったと眉を下げるも、理人は腕の中から抜け出そうとはしない。ただ、これ以上何の発展もないのならば、無理矢理にでも部屋の中に入れようとは考えていた。
 いくら何でも玄関で二人突っ立ったまま何十分も過ごすぐらいなら、柔らかいソファーで話を聞いてやりたいのだ。
「泣いているだけじゃ分からないよ」
 抱きしめていた手で肩甲骨辺りを軽く叩くと、恐る恐るレナードが顔を上げる。
 それは酷いものだった。白い眦は赤く腫れ、孔雀石の瞳は潤んで揺らいで見える。口許は一心に耐えるようにわななき、まっすぐな柳眉は今では下がって情けない。
 レナードの腕が緩んだのを見て、理人はようやく自由となった腕で今度は反対にレナードの腕を引き、家の中へ入るよう促した。そしてそのままソファーへ座らせた。
 紅茶でも、とその場から離れようと理人をレナードが止める。微かに聞えるぐらいの声で「行くな」と言う。そう言われれば行けるはずもなく、理人は静かに隣に座ると、肩に重みが乗る。
 細く長い金糸を撫でる。髪は艶々としており、甘い花の香りが漂う。
 レナードは零れる涙を拭うこともなく、ただ涙を流していた。薔薇色に染まる頬を伝い、制服の胸元に落ちる。何か言いだそうと口を開いたが、嗚咽が喉に絡まり上手く言えないでいるようだった。
「落ち着いてからでいいから」
 何があったのかは分からない。誰かに嫌なことを言われたのかもしれない。誰かを傷つけたのかもしれない。
 毎晩のようにレナードが逐一報告してくれる内容は大凡ネガティヴな話題ばかりだ。理人にとってはあまり気にならないことにもレナードの心には響くようだった。
 ただ一つ一つに頷いて聞いていけば、何か解消されるらしく、話し終わればいつもの彼に戻る。今日も程度はどうであれ、その限りだと理人は思っていた。
「……落ち着いたか?」
 しばらく経ってから、レナードが静かになったのを見計らって尋ねると頷きが一つ返ってくる。
 顔を見せてみろと、理人が顎に指をかけ顔を上げさせると、また一筋、目尻に溜まっていた涙が流れる。それを親指で拭えば、何度か瞬きをして残りを空へ弾き飛ばす。真っ赤な目と目が合って、少しでも元気づけようと笑って見せると、また碧眼が潤み始めた。
「おいおい……レナード」
「……ぅ、……ふ……」
 これ以上泣いたら目が溶けるぞ。
 茶化すように目じりをなぞっても止まることなくレナードの涙は理人の指を濡らす。これはどうしたと理人は焦った。また嗚咽を漏らし始めるレナードにはもはやどう声を掛けてやればいいのかさえ分からない。
「レナード、泣くなって」
「すま、……ない、……な、し、たいのに、……っ」
 すっかり涙声になったレナードを、横から引き寄せるように抱きしめた。あやすように肩を叩くと、寄り添うようにレナードが頭を預けてくる。
「話して楽になるなら話してくれよ。ちゃんと聞く」
「ああ、……」
 頷くも、未だ決心がつかない。
 理人は落ち着いた声色で、レナードの肩を撫でながら無理はしないようにだけ告げた。すると、レナードが何度か息を深く吐き、目蓋を伏せて呼吸を落ち着かせ、理人を見上げた。
 こうやって宥めるたびに、例えレナードが傷つけられたとしても、理人自身が物理的に、直接的に相手に対して何かしてやれるわけではない。ただ聞くことと背を撫でることしかできないもどかしさがあった。

 散々泣き喚いて、溜まっていたストレスを全て吐き出し終えたレナードはすっかり声を嗄らし、鼻をすんすんと鳴らして落ち着きを取り戻しつつある。
 今度こそ何かあたたかい飲み物でも、と理人があるものを頭に思い描いた。
「ああ、そうだ」
「なんだ?」
 そこで待っていてくれ。そう言って理人は腰を上げた。今度は引き止められることはなかったが、代わりにレナードも立ち上がって理人の横に立つ。
 初めてこの世界へ来た時にはチョコレートは存在しないものだと思っていた。しかし実際はこの予想をはるかに裏切って、その悪魔の秘薬は一般市民にまで多少高値ではあるけれど出回っていた。しかもカカオ豆で売っているのもあれば加工済みのもあるほど、中世風な服装とは違ってどこか近世的だ。
 確かに電灯はないし、鉄道だって走ってはいないけれど、何故かカカオ豆の流通は滞ってはいないらしい。他の香辛料も比較的手に入りやすいし、保冷用の蔵がレナードの家にあったおかげで、チョコレートの保存状態もいい。
 鍋には刻んだチョコレートが溶け、シュガーとミルクに混ざり、とろりとしている。少し沸々としてきたところで火から放し、少し冷ましてからカップに注いだ。素材の風味にこだわって、香辛料やラム酒といったものは避けて仕上る。
 理人がいわゆるホット・チョコレートを作る傍ら、レナードは理人から離れることなく寄り添っていた。それがどこか子供っぽく、見ていて微笑ましい。理人は知らずに口元を緩ませた。
「ほら、飲んでみろ」
 カップを渡そうとすれば、そのままレナードが理人の手を話さずに口をカップの端につけて喉を鳴らす。喉仏が一度上下して、またもう一度。ゆっくり味わって口を離した途端、眼を輝かせて頬を赤くしたレナードの様子に理人は上手く出来たことを確信した。
「おいしい……」
「口に合って良かった」
「チョコレートは飲めるのだな」
「ショコラ・ショーって言うんだよ、それ」
 理人の知識には、元来チョコレートは飲むものとして流通したとある。ただそれは理人の世界の常識であって、もしかしたらこの世界ではそうではないかもしれない。
 一杯をゆっくり飲み干したレナードが再び理人を見上げ、申し訳なさそうに目を伏せた。
「リヒト、度々すまない。くだらない話を聞かされ、しかも目の前で泣かれて、迷惑だっただろう。私は昔から一度ああなると、自分でも抑えられなくなって……」
 レナードの情けない面が肩を見る視線にあわせて理人も見れば、見事に涙やら鼻水やら、よく分からないものでぐっしょりと濡れている。とっさに腕の裾で拭ってやる。それに苦笑してフォローするも、レナードはすっかり己れのやるせなさに肩を落としていた。
「そこは『ありがとう』がいいなあ」
 空になったカップを攫って、鍋と共に流しに持っていく理人の後ろで、レナードはいっそう頬を赤らめた。香るカカオに甘いミルクの匂いに混じって、あの薔薇の香りが微々に漂う。
 レナードの手が理人の背に伸びる。理人に近づく度にチョコレートのアロマと彼特有の薔薇の香りが強くなり、心に揺さぶりをかけてくる。恍惚とした甘い顔を理人の首筋に当て、後ろから腕を回した。
 いい匂いがする。今まで駄目だと言われてきたはずの匂いが、悪だと言われてきた匂いが、レナードをいっそう魅力的に惹かれさせる。
「おいおい、いきなりくっつくなって。危ないだろ」
 低い声、温かみのある声色。後ろを振り向く理人に、レナードは無意識に顔を寄せた。
「何して……って、え?」
 口端の丁度真横に押し付けられた柔らかい感触。理人はそれがすぐにレナードの紅唇とは気付けず、しばらくそのまま固まっていた。
 触れた感覚に目を見開いて、慌てるがままに腕を放したレナードは、真っ赤な顔で唇を指先で押さえている。
「……なんだ、ありがとうってことか?」
「わ、私は、……」
 こういうときに何と言えばいいのか、原因不明の熱に浮かされたレナードはすぐには思いつかなかった。理人はあえて問いただそうとはせず、うまく言えないでいるレナードが話し出すのを待っていた。
「その、それは、今のは……」
 匂いだ。そう、匂いにつられて触れたいと思ったはずだ。いい匂いだから、何も考えられなくなる程甘い匂いだから。レナードは必死に自身に言い聞かせ、なんとか事を噛み砕いて納得しようと奮闘した。
「レナード、もういいって。そんなに悩まなくてもいいだろ」
「お、お前のその匂いが悪い! 私はその匂いにつられて……」
「匂い? 今更じゃない?」
 確かにチョコレートくさい。理人はさも普通に、その効力を知らずに自らの身体から漂う匂いを嗅ぎ、平然と過ごしてみせた。まるで何の匂いもしないと言った面で、不思議そうにしている。レナードにとっては、むしろ市民の大多数が求めるあの甘く馨しい匂いを、なんとも思わないのだ。
「やっぱりお前は悪魔なのか……」
「本当に悪魔だったらどうする?」
 揶揄する眼差しで理人は言った。黒耀の瞳がじっとレナードを見つめている。つやつやと輝いているそれが、まるでミルクを投下されないカカオの汁に見えてきて、いっそうレナードを焦らせた。見事に悪魔の罠に陥ってしまっていることを、まだ本心で認めるわけにはいかなった。
「……困る」
 本当に悪魔だったらどうしよう。レナードの心を一瞬にして占めたのは、醜い悪魔となった理人の姿だ。修道騎士である以上、悪魔とは対峙する位置にあり、祓わなければいけない。
 そう思うと、また勝手に目じりが沁みて痛み始めた。落ち着きを見せていたはずが、すぐに変わってしまう。レナードは眉をまた下げて、空のカップを見つめた。
「レナード、ごめんな。俺の言い方が悪かった。俺はちゃんとレナードのところにいるよ」
「お前がもし心身共に悪魔に染まったら、いやそうならないように監視するけれど……」
「レナードが俺のことを見ていてくれるんだろう? なら大丈夫だ」
 汚れていないのにも関わらず、理人の手のひらには今まで触れてきた分の甘い匂いが染みついている。その手が頭を撫でている。レナードはその事実を、決して嫌だとは思えなかった。
 理人の優しい目が、ショコラ・ショーのおかわりを尋ねている。もう一杯、もう一杯だけだと自分に言い聞かせつつ、レナードはその暖かい飲み物に心を浸したのだった。




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