部誌1 | ナノ


薔薇



尾張幕府九代将軍、家鳴なまえ。
二十年前の大乱ののち、先代匡綱より一切の権力を受け継いだ若き将軍。
学問を好み兵法に詳しく、剣術をはじめとする武道に長ける――しかし。
実のところ、国を治めているのは形だけの隠居を果たした匡綱であった。
なまえは政と色恋にまったくこれっぽっちも興味を見せないのだ。
この天下泰平の世において、軍学に耽る彼を人々はこう呼んだ――
いくさ将軍。



尾張。
家鳴将軍家のお膝元。
その中心に位置するのが尾張城である。荘厳にして巨大、複雑怪奇な構造を持つ、過剰なほど守りに長けた、要塞の如き建築物。
その天守閣において、先代将軍・匡綱は城下を望んでいた。
「お連れいたしました」
匡綱は振り返らない。
極秘の、会合だった。
相手は尾張幕府家鳴将軍家直轄内部監察所総監督である。
「苦しゅうない、面を上げよ」
ゆっくりと、女は顔を起こした。
和装が誂えたように良く似合う。
やや地味な模様の着物だが、質が良く上流階級の人間らしい。
金色の長い髪。
青い目。
透き通るような白い肌――
外国人――である。
ぽつりぽつりと、匡綱は話し始めた。
「耄碌爺の独り言じゃ。相槌は要らぬ」
「……」
「現将軍は我が息子ながら頭が固くてのう。政に頓着しておらぬように見せてはいるが、『これからは海の外に目を向ければならぬ、国を開き交易を盛んにして軍備を整えねばならぬ』とそればかりじゃ」
――どうやら市井で囁かれているほど、将軍は愚か者ではないらしい。
女は思う。それがこの老人にとっても賢く映るどうかは別の問題だが。
「妻を娶り跡継ぎを、と言っても曖昧にかわされるばかりでな。もしやと見目麗しい男を宛がったら衆道の嗜みは無いと来る。民草にはいくさ将軍などと揶揄されておるそうではないか。困ったものじゃ」
老人は溜息をついた。
「時折な、現将軍の弟――綱忠が余の跡を継いでいたら、などと考えてしまってな。今は幽閉も同然に暮らしているが、聡明な奴じゃ」
「……」
「まあ良い。今の言葉は忘れてくれ」
ところで、と匡綱は肩越しに後ろを見やる。
「そのほう、言葉の裏を読むのが得意だと――噂されておるようじゃが」
「いいえ、そんなことは御座いませんわ」
女は――否定した。



「私と国盗りをしないか」
雑木林に囲まれた屋敷町の中でもひときわ質実剛健な空気を纏う、そんな屋敷。
否定屋敷の一室で将軍――家鳴なまえは、はっきりとそう口にした。
相対するはこの屋敷のあるじ――否定姫。
目の眩むような金髪碧眼の女である。
「国盗り――と言うと、外つ国への出兵でもお考えになっていらっしゃるのかしら?」
「違う」
なまえは至極真面目に、真正面から、否定した。
「仰りたいことの意味がよくわかりませんわ」
否定姫は着物の懐から鉄扇を取り出し、ばん、と開く。
本当にわからない訳ではないが――それにしても。
国盗り。
随分な言葉を――平気で使う。
否定姫はまだ家鳴なまえの真意を測りかねていた。
「知っての通り、私は将軍とは名ばかりの傀儡に過ぎぬ。政の方針においても大御所――父上と衝突してばかり。子をなさずとも近いうち隠されてしまうであろうな」
「まあ」
――そうなるでしょうね。
顔には出さないが、否定姫も同じような展開を予想していた。

「だがな、私は、父上程度に殺されるほど、私自身をやわだと思ってはいないのだ」

なまえは静かに笑う。
否定姫は鉄扇を揺らしながら、
「それで、わたしに何をしろと?」
と問うた。
「そなたは優れたしのびを従えていると聞く。あまり難しくはなかろう」
そなたに似た女人をひとり、隠密に尾張城内へ連れてきてほしい。



「さて――ねえ、あんたも聞いていたでしょう」
なまえが否定屋敷を去って間もなく、否定姫は天井へと声を掛けた。
勿論天井板に話しかけたのではない――天井裏に潜む腹心、左右田右衛門
左衛門に向けて、である。
「はい」
なまえが屋敷を訪ねる前から、右衛門左衛門はずっとそこにいた。
わざわざ反応することでもないと、判断したのだろう。
「早速だけど取り掛かるわよ」
そう言うと否定姫は、鉄扇を閉じた。
「まずは将軍のご用命を――否定するわ」



数ヵ月後。
尾張の街から日の本全土に、おかしな噂が広まった。
――九代将軍なまえ公は、幕府高官の女と刃傷沙汰になって殺された。
突然の将軍交代劇の裏側ということもあって、表立って口にする者はいなかったが、密やかにそして確実に、人々はそれを信じた。



とある街道にある一軒の茶屋。
どこにでもありそうな店のどこにでもいそうな顔立ちの主人と、質素な身なりだがどこか品格のある端正な顔立ちの男が、店先の長椅子に並んで座っている。
「あそこで櫛を見てるのあんたの奥さんだろ。美人だねェ」
「ええ、一目惚れだったんです――ただ性格がきつくて。尻に敷れてますよ」
「あはは、どこもおんなじだなァ。うちの母ちゃんも煩ェんだ」
聞こえてるよ、と店の中から怒鳴り声が飛んでくる。
「少し後ろに立っている洋装で仮面の男、彼女の家人だったんですけどね、一緒になった後も私より彼女の命令を優先するよう言ってあるんです」
金髪の女が移動する度に、仮面の男は視界に映らないよう動き回る。
幕府に追われる身にしては目立つ連れだが――悪くはない。
「まあでも、よく言うでしょう」
なまえは眩しそうに女――否定姫を見る。

「『綺麗な薔薇はなには棘がある』、と」



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