部誌1 | ナノ


ひとひら



「重衡、ここへ来るのは清盛様に禁じられていた筈だろう?」

突然の重衡の訪問に困ったように笑いながら、けれど邪険にすることはせず、なまえは床から身を起こした。それだけの動作でふらりと傾ぐ背に手を添えてやれば、「ありがとう」と目を細める。
昔と仕草は変わらないが、弱々しい声や、皺の増えた目元、灰色になった髪は髷も結わずに肩に垂らしており、憶の中の彼とは全く違っていた。まだ四十手前とは思えない容貌である。衰えた、となまえの身体に巣食う病魔の存在を明確に感じた。

「……すみません、どうしてもなまえの顔が見たくなりまして」
「君は昔から甘えただったからね。殿上人となってもそれは変わらずか」
「……私が甘えるのは貴方にだけですよ」

むっとしてなまえをにらむ。

「嬉しいことを言ってくれるね。けれど、病が移ってしまっては大変だから、少しの間だけだよ」

清盛の言いつけを破った重衡を叱ることもせず、苦笑する彼は、相当に甘い。自分がなまえに対して少々我が儘を言ってしまう原因は、自分が幼い頃から接していた彼の教育にあると重衡は確信していた。そして、そんな彼について回る程、重衡はなまえを慕っていた。

「ん……、重衡、髪に」

なまえは重衡の頭に手を伸ばし、宮中の女性たちを魅了する銀髪に一度だけ指をくぐらせる。くすぐったい、けれど心地よい感触に思わず目を閉じ、そして開くと、一片の桜の花弁を指に乗せたなまえがいたく嬉しそうにしていた。恐らく知盛の花見酒に付き合わされていた折に髪についたのだろう。

「ねえ重衡。外はもしかして桜が咲いているのかい?」
「ええ、満開ですよ。今夜は月も明るいので、知盛兄上などは将臣殿と酒盛りなど始めていらっしゃいました」
「ほんとに?嗚呼、何で知盛は私を誘ってくれなかったのだろう」
「貴方は外を歩ける状態ではないでしょう。それに、知盛の兄上だってなまえとの面会は父上に禁じられているではありませんか」
「知ってる知ってる。冗談だよ」

けらけらと彼は笑っているが、やつれた姿では虚勢を張っているようにしか見えなかった。
冗談だと笑ってみせてはいるが、親しかった者たちから隔離される生活が、常に人に好かれ、囲まれていたなまえにとって寂しくない筈がないのだ。孤独な毎日は病の症状以上になまえを苦しめているようだと、平家の子女の中で唯一なまえとの面会を許されている敦盛も顔を曇らせていた。なまえの病は罹れば治療の術はないと言われるものである。一族の長である清盛が、平家の者たちとなまえが会うことを禁じたのは至極当然の判断なのだろうが、それ故になまえの苦しみを増大させているのは、重衡にとっては耐え難いことだった。

「なまえ……平家に尽くしてくれる貴方に、この様な仕打ち……あまりにも惨すぎます」

ぎりりと奥歯を噛み締める重衡に、なまえは子供をあやす様に語りかける。

「……重衡、一つだけ頼みがあるのだけど。私を庭に連れて行ってくれないか?折角の春なのだから、桜を見逃してしまうのは勿体ないからね。ほらほら、早く負ぶってくれ」

狩衣の袖を引っ張られたかと思うと、あれよあれよという間になまえを背負い、庭の桜の下まで出ていた。相変わらず強引な人だな、と内心苦笑するが、床に臥していても変わらないその気質に安堵を覚えた。

背中のなまえがはらはらと散っていく満開の桜をじっと見ているのが伝わってくる。骨と皮ばかりになった彼の身体はあまりに細く、軽い。ほんの少し会わなかっただけで明るく活発だった彼がここまで変わってしまったという事実が、背中から鼓動とともに重衡へと沁みてきた。

「私は、幸せだよ」

静かに、穏やかに、なまえが口を開いた。

「平家に仕えて、兄のように慕ってくれる重衡がいて……大好きな皆が、辛い思いをするだろう未来を見ずに死んでゆける」
「何を……!」
「君だって気付いているだろう?平家はだんだんおかしくなってきている。敦盛が怨霊にされ、今度は清盛様が怨霊となって黄泉からお戻りになった。君だって南都でのことは――」

脳裏に全てを呑み込む朱色が蘇る。重衡ははっとして背中のなまえを振り返った。南都に火を放ってしまったことは彼の耳には絶対に入れたくなかったというのに。肩越しの彼の顔は瞳に映った自分の顔が見えるほどに近く、全てを見透かされてしまいそうな距離で、彼を誤魔化すことなどできる筈がなかった。

「軽蔑、しますか?火を放ってしまった私を……」
「いいや。でも、私はこんな平家を見ているのが辛くてしょうがない。だから、皆が幸せな夢を見ているうちに死ねるのが嬉しいんだよ」

なまえはそうして、枯れ枝のようになった右腕を空に伸ばした。舞い落ちる桜は彼の指をすり抜けていく。

「桜は散るし、私は衰え死んでいく。平家の栄華も、いつか必ず終わるんだよ」

重衡に言い聞かせるように呟いた声は、ざあと吹き抜けた風に掻き消された。なまえに置いていかれる自分はどうなるのかと言いたかった。けれど、首筋に温かな水滴がぱたぱたと落ちるのを感じてしまえば、そんな文句は飲み込むしかない。

重衡は足元の一片の花弁を、ざり、と踏みしめた。月明かりに照らされた桜は、雪のごとく輝くはなびらを降らせていた。




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