部誌1 | ナノ


薔薇



 アモールとエロースは根本的には同じだ。その出自はすべて神にある。天上からの愛、地上からの愛というベクトルは違えども、愛は天と地とを通して常に円を描くようにはたらいている。
 我々の魂は知性から成り、その知性は神から生まれたものである。その知性が神に向かうことの躍動を愛、その煌めきを美と言う。
 真っ赤に熟れた唇が嘯くネオプラトーニコらしい言葉に耳を傾け、ジャンニは手にしていた杯の中身を飲みほした。葡萄酒は芳醇な香を放ち、ジャンニを魅力してやまない。それに加え、最近流行り出した愛についての彼なりの解釈を聞いているだけでよく成熟された味に変わっていた。
 流暢に語るアダーモは成人男子にしては細身で色が白く、同じ酒に喉を潤していながらすっかり出来上がったような面をしていた。酒に濡れた唇は目を奪うほど麗しい赤に染まり、頬はその葡萄色をうすめて刷毛で塗ったかのように赤らんでいる。脂ぎった男のする同年代の男とは違って、ジャンニの目にはひどく美しく見えた。
 アダーモも杯の中身を全て呷り、喉をうるおして、再度ジャンニと目を合わせた。黒々とした虹彩とアンバーが互いの目に映る。
 二人がいる部屋の外はすでに夜の帳を下ろして微光を放つ星を散らばしている。この夜会にはジャンニとアダーモの二人しかおらず、目に入る光は二つ。部屋を灯す燭台の炎と互いの目の色だ。
「――世間ではアリストーテレが主流だが、『饗宴』もなかなか素晴らしいものだ」
 外と同じように、沈黙の帳を下ろした後に少しそれを引きあげて、アダーモは自分のグラスに注ぎながら言葉を続けた。まるでジャンニに語るというよりかは、むしろ自己陶酔しているかのようである。
 アダーモの瞳には炎と星の煌めきがきらきらと輝いている。そのまま言葉を語らせれば、まるで神憑きの詩人のように抒情詩をうたいだしそうだ。
「僕は彼の詩学が一番好ましいと思うよ」
 ジャンニはどちらかといえばアリストーテレを好んでいたから、そうかといってプラトーネを嫌うわけでもなく、彼の詩人の心が見えるのに引きつられて言った。
「彼の著作は素晴らしいというのは私も認めているところだ。あれが何故この地に置かれていなかったのか、口惜しいとさえ思うよ」
 世間の主流はアリストーテレあるという事実は認めていながら、アダーモはプラトーネから離れようとはしない。
「我々が求めている言葉が、まさかアケーオから結びついているなら、それはなんて素晴らしいことだろう。我々が信仰していることがね。一介のクリスティアーノとして歓喜するばかりだ」
 アリストーテレがもてはやされるのは、彼が論じた政治学、倫理学、分類学、その他における学問としての価値が大いに見出されたからである。それはこの地、イターリアには不足していることでもあった。
 アダーモは杯についですぐ口を潤して、薄い肉切れを口に運んだ。
 肉薔薇が自身の花弁を一枚引きちぎって咀嚼している。一番太い花弁がそれを唾液まみれにしているのだ。
 ジャンニは酒を口に運ぶのを忘れて、その目の眩むような光景を見つめていた。酒の上気を炎とアダーモが煽って見せるものだから、ジャンニの視界は少しぼやけてしまう。それでもジャンニに対面している花弁の集まりはジャンニの目を引きつけて離そうとはしない。
「なあ、君。知っているかい。恋することの素晴らしさを」
 ジャンニの目が宙を彷徨わないのに気を良くして、アダーモは目を三日月形にほほ笑んで言った。
「恋? 恋をうたうなんて、やはり君は詩人になりたいのかい」
「『饗宴』に書いてあることと、我々が思うこととを照らし合わせれば、君だってすぐに分かる。そんな難しいことではないさ」
「なら、教えてくれないか」
 ジャンニは恋の師に教えを求めた。その教え手は再度葡萄酒で舌を勢い立たせてから、新たに教え子となった人に語り始めた。
「我々の魂は神につくられ、そして知性に形づけられたというのはいいだろう。神ははじめに三つをお創りになった。知性、魂、そして物体だ。他の二つも同じように知性は知性となる前は混沌だったのだが、その混沌の中に神を目指すという<熱情>が含まれている。そもそも混沌は神の被造物なのだから。その熱情が愛というのは先ほど話したね。その知性があとの二つを混沌というあいまいなものから、形作る際にも同じように<熱情>が含まれている」
「その熱情がどう恋と結ぶのかい」
「まあ聞いてくれ。日ごろ我々は目の欲なり耳の欲なり、肉の欲を否定しているだろう? それはその欲があることを知っているからだ。地上の、卑俗な愛が我々の肉体にあるからだ。ただ命を消耗するだけで、しかも神を目指そうとはしていないからね。しかし一方で神を愛するという愛を持っている。それは天上の愛、魂に備わっている熱情があるからだ。卑俗の愛と天上の愛は、実はつながっていてね。まったくの別物というわけではない。魂が天上<神>に向かうように、物体も魂の内にあるものに向かうようにできている」
 アダーモはそこまで言って、一度口を閉ざし、葡萄酒を喉の奥にやった。下唇の上に残った滴りを舌ですくい取って、喉を鳴らす。まるでその酒の色がそのまま吐き出されるように息を吐いた。
 ジャンニは同じく酒を運びならがも、一瞬、まやかしに誘われるように、その色づいた吐息を吸いこむ白昼夢を見た。同じく手にしている酒と同じ味のする、甘い吐息を。
 ジャンニは続きを促した。「ああ、それで」と、傍から聞けば興が削げたような物言いだったが、アダーモはそれに気落ちすることなく、饒舌に話し出した。
「卑俗な愛を通して、天上の愛につなげることができるのだよ。神は素晴らしい手段を我々に与えてくださった。もちろん魂は神に向けなければならないが。恋をするということは、相手を美しいと好ましいと思うわけだ。何故美しいと思う? なぜ好ましいと思う? アケーオの人々は特に男色趣味が多かったものだったけれど、その理由は自分の理想が相手に見出されたからだ。その理想を追い求めることが、その熱情が、恋しい人を通り越して神に向かうというのだよ。恋しい人はあくまで媒介でしかない。とはいえ、偽りというわけでもない。相手を恋しいと思う気持ちに偽りがあるならば、神に向けられるだろう気持ちも疑わしいものだ」
 そこまで言い切って、アダーモはジャンニの目の光を自分の目に取り入れた。黒い虹彩が薄茶に変わっていく。相手の目が黒くなっていることに満足そうに息を吐いてから、席を立った。
 離れてしまうのかとジャンニは咄嗟に抱いた寂寞の思いをあざ笑うように、アダーモはジャンニの座る長椅子の隣に腰を下ろした。
 安心させるようにジャンニの肉感のある肩に手を滑らせて、間近でその目の光を捉えた。
「今、君は私が席を立ったことをどう思った。離しがたいと思ったのではないか」
「……アダーモ、何を考えている」
 色を誘う口調は蜜に濡れた薔薇の香に勝るほど甘い。その一方で、先ほど茶化すようにジャンニが語ったアケーオの人に似た匂いが濃厚にアダーモの周りに漂ってきた。
「私を通して、神に向けてみないか」
「おいおい、クリスティアーノがアケーオの慣習にたぶらかされるのか」
 脳を鈍らせる匂いから逃れるために、ジャンニはアダーモから目を逸らした。今更走って逃げるほど身体に力は入らない。酒瓶はいくつもテーブルの闇の向こうに転がっていた。
「別に姦淫に耽るわけではない。アケーオの人々も、互いに果てる様を見るだけだったものだよ」
 またジャンニの脳内に、アダーモの果てた姿が映し出された。散々厭わしく思っていた肉の欲にまみれたジャンニの姿がアダーモの下腹にある熱をふくらませようとしてくる。
 アダーモの手がジャンニの汗ばんだ頬を捕える。こめかみに浮かんだ湿っぽさも指の腹になじませるように撫でて、再度目の色を取り入れた。
「私の目を見てくれ。そのまま目を閉じずに、熱情を私に……」
 口に触れたのは麗しい酒ではない。アダーモの熱い肉べらがジャンニの唇を吸い、吐息を馴染ませていく。ジャンニがまだ逃げようとするのを見計らって、アダーモはその両足に自分の腰を置いて、膝で固定した。ジャンニとアダーモには体格差はあるけれども、酒にまみれた身体では、差はあってないようなものだ。
「わが身を持って教えてあげよう」
「アダーモ……やめ、――」
 ジャンニの躊躇いはアダーモの口づけの奥にやられた。あつい花弁が色のついた唾液をまぶしてまた吸いつく。熱に濡れたアダーモの瞳がジャンニの色の染まったまま、目の端から涙をこぼす。
 手に入れた。やっと手に入れた。それでいい。心からの歓喜に打ち震えるまま、こぼれた涙がジャンニの顔に降りかかる。
 神は何処へ。はたしてこれは欲なのか、愛なのか。困惑と欲情の渦がジャンニを巻き込んでしまう。
 外の帳が幕を上げてもなお、アダーモのいばらの手はジャンニを捕まえて離さなかった。




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