部誌1 | ナノ


嘘と本当



過ごしやすい季節になったとは言え、夜の高層マンションのベランダは肌寒い。高所を吹き抜ける風はなまえの髪の毛を乱していくが、寒さも風も気に留めず、なまえはベランダの手摺りに手をかけて夜空を睨んでいた。空の大半はビルやゲートを取り囲む壁に削られてしまっていたが、それでも合間から見える空は晴れており、星々を視認することができた。
東京は、星を眺めるのには向いていない街である。障害物は多く、空全体を眺めることは難しいし、色とりどりの人工の灯りは一晩中絶えることはなく、暗い星であれば簡単に掻き消されてしまう。けれどもそれを問題とする人は多くはないだろう。十年前にゲートができてから、正しく天体と呼べるものは地球から観測できなくなってしまったのだから。

「寒いでしょう」

ガラリと窓が開く音に振り返れば、一人の少女がマグカップを持ってベランダへと出るところだった。僅かに首を振って問題ないという意を伝えると、彼女は「そう」と言い、なまえと同じようにベランダの手摺りに凭れた。アンバーのライム色の髪の毛が風に流れ、なまえの頬をくすぐる。

「おかえり、アンバー」
「ただいま。はい、これ」

渡されたマグカップにはホットミルクが湯気を立てて揺れていた。その液体に先日計画の途中で死んだ仲間を連想し、なまえはぴくりと眉を動かしたが、それきり動揺は見せずに礼を言ってマグカップを受け取った。
両手で温かいそれを包みこむと指先がじんと痺れ、末端が冷えていたことに気づく。一時間も動かず外に居れば当然である。思わず舌を引っ込めてしまうくらいに熱いホットミルクを、マキがそうしていたように、冷めぬうちに口へと運ぶ。こうして死者を思い返すということがあっただろうかとミルクの甘さを感じて思考する。ちらりとアンバーを見やり、自分が無駄な思考をするようになったのは彼女のせいだろうと確かめた。
アンバーと会うのは五日ぶりだ。マキが連続爆破事件を起こし、ノーベンバー11の拉致に失敗し、アンバーが黒と接触したという日以来である。その僅かな期間に彼女の背丈はまた少し低くなり、目は丸く幼くなっていた。始めて会ったときにハイティーンの女性だったアンバーは、既に十三歳のなまえとそう変わらない年頃の少女に変容していた。

「アンバー、また……雨霧が心配してるよ」
「なまえは心配してくれないの?」
「そういうことじゃなくて――」

身を削って能力を使用するアンバーを咎めるように睨んでみたが、彼女は飄々と笑って話を逸らすのみだ。

「星、見てたんだ?」
「……うん。今日は、晴れてたから」

どれどれと上を見上げるアンバーに、なまえもホットミルクを啜りながら先程まで眺め続けてた空に目を向ける。しかし口のマグカップから立ち上る湯気が視界に白くかかり、晴れているはずの空には靄がかかっていた。
その時、ちょうど壁の上で星が流れた。ゲートの方角は灯りがなく暗い為、流れ星が夜空に尾を引いて落ちる様子がはっきりと見えたが、それは一瞬輝いただけで消えてしまった。なまえは星があったところを見つめ、マグカップを包む指先に力を込めた。

「流れ星に願い事を唱えると、その願いは叶う」

ぽつりと呟いたなまえを、アンバーが意外そうに見た。

「信じてる?」
「まさか。でも、契約者になる前は――」

信じていた。
声に出すことはない言葉を胸に潜ませ、なまえは契約者でなかった頃の自分を思い出す。契約者になる前の自分のことは覚えているが、自分自身の経験した記憶というよりは、本に記された過去を客観的に眺めていることに近い。その本の中の自分は、父から教えてもらったおまじないを実践しようと満天の星空に目をこらし、流れ星を探していた。その頃には既に東京と南米にゲートが出現しており、空は偽物へと変わっていた。記憶の中の自分を照らしていた星々は全て契約者と対応する偽りの星だったのだ。

「ぼくは本当の空を覚えてないの。月が浮かんでいた空も、遠くの宇宙にある天体が一面に輝いていた空も」
「……そっか。君は今いくつだっけ」
「十三。ゲートが現れる前のことなんて、知らないよ。だからぼくが知っている空に、ほんとも嘘もないんだ」

高所から見渡せば、嫌でも目に入る壁。あれが無かった東京をなまえは知らない。物心ついたときから東京に当然のように存在していた壁は、アンバーからサターンリングに関わる計画を聞かされEPRの一員となった今のなまえにとって破壊すべき対象でしかなかった。あれを作った組織は、ゲートも契約者も消し去ろうとしているらしい。それは全てを元の正しい姿に戻すということだろうが、その元の姿を知らないなまえにとってその計画は疑問しか抱かせなかった。だって、昔の自分はこの空を確かに「美しい」と思っていたのだから。
視線を下に向け、多くの人間が活動する街を眺める。

「ねえアンバー。偽物じゃ駄目なのかな。本物じゃないから、偽物は消えてしまわなければならないの?」
「そうね、それは暴論じゃないかな。私たちにだって感情はあるし、大切な人だっているのにね」

アンバーは身体を寄せ、頭をこてんとなまえの側に倒した。
俯瞰する都会には、大勢の契約者たちが潜んでおり、各国の諜報機関が警戒する大黒班の極大期を前に、その数は増えているだろう。PANDORAのサターンリング計画が成功すれば、彼らも、自分も、アンバーも、ゲートも偽りの空も消え、全てが正しく「ほんとう」に戻ると聞く。それが人間の望むことなのかもしれないとは理解しつつも、消滅させられる側であるなまえは自分の身を守る為の合理的判断を下し、アンバーと共にトーキョーエクスプロージョンを起こすことを、夜景の中に黒くそびえる壁に確かめたのだった。




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