部誌1 | ナノ


ひとひら



至って普通の生活をしてきた筈だった。
何か物足りないながらも、満足の出来る生活だった筈だった。
だが、その欠片に気付いた時にはもう戻れない所まで来てしまっている。
人生とはそれの連続なのだ、と。

今日だって、特に立ち寄る理由は無かったのだ。
ただ親と顔を合わせるのが嫌で仕方なくて。少しだけ遠回りをしようとしただけで。
今にも泣き出しそうな冬空の下、普段通らない道を歩いただけのこと。
――あまり治安の良くないこの界隈は所謂"そういう事"が多く、一本裏へと入り込めばブラックな世界が広がっている。
普段は極力近寄らない様にしているのだが、気分転換などと考えてしまったのが運の尽きだったのだろう。
目の前に広がる非日常から逃げる術も無かった。

「…――」

青年は、今にも息が絶えようとしていた。否、そう見えただけかもしれないが。
壁に凭れ、息も浅く。何処かで乱闘騒ぎでもあったのだろうか、所々に傷も見えた。
額から滴る血は目を塞ぎ、青年はこちらに気付く事もない。
足は自然と、彼の傍らまで進む。気付けばその前に立っていた。完全に意識の外の行動だった。
関わりあいになってはならない、これ以上近づいてはいけない。
警鐘を鳴らす思考の奥とは別に、心の中は別の感情が支配していた。

"ああ、なんて、美しい"

スワンソング。白鳥は死ぬ間際、最も美しい声で歌うらしいという話。
きっと人も変わらないのだ。その間際である彼の表情は、今恐らく一番美しい物に違いない。
制服のスカートを押さえて屈む。コートが地面を掠る。汚れるという概念も私の中には既になく。
手を伸ばした。寒さに白く色づく首へ触れてみる。未だ、息はある。
高鳴る鼓動は衝動へ代わり、気付けば触れる手は両手へと増え―――

ぽたり

刹那手の甲へ触れた雫は、元々は結晶を成していたようだった。
そのひとひらは一気に思考を現実へと引き戻す。そして、見ず知らずの彼の首に掛けた手にも。
モノクロの世界へ色が落ちる様に段々と、周囲の状況も明確になる。
遠くで彼を探す声が聞こえた。息の根を止めようとしているのか、彼を生かそうとしているのかまでは分からなかったが。

ひらり

目の前を舞うそれが、雪だと気付くのにさして時間は掛からなかった。
手に落ち消えた欠片を境についに降り始めてしまったらしい、辺りは自分が思っている以上に冷え切っていたようだ。
――彼は、混濁した意識の中で未だ生を望み、浅い呼吸を繰り返す。未だ目は開かない。
一つ、白い息を逃がして漸く手を離した。

「…――もうすぐ、誰かきます。どうかお気をつけて」

ゆるりと立ち上がると軽くスカートの裾を直す。足は元来た道へと向いた。
彼の反応を待たず、しかしゆっくりと日常へと戻っていく。
一歩一歩コンクリートに靴音を響かせながら、再び雑踏の中へ紛れて消える。
ひらひらと視界を横切る雪は時折マフラーに残り、その数を増して本格的な冬の訪れを告げていた。

ただ、不幸にもわかってしまった。
幾ら道を戻れど、知らなかった事には出来ない事に。既に、日常は遠く色あせていた。

最後のピースを知り、彼女の世界は動き出す。




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