部誌1 | ナノ


ふわり、微睡む意識の中に



不意に聞こえた歌声に、樺地崇弘は顔を上げた。
合唱部のものではないそれは、樺地のよく知る歌声だ。
印象的ではないそれはどこか稚拙で舌っ足らずで。それでも樺地は、その歌声も、声の持ち主も好んでいた。

部活が始まる前の、少しの猶予の間。
樺地は己の所属する男子テニス部の部長、跡部景吾に指示されて芥川慈郎を探していた。いまだどこかで寝ているだろう芥川は見つからず、部活が始まる前には探し出したいところだ。
にも関わらず、樺地の足は踵を返し、声の主がいるだろう屋上に向かうのだった。


秋も深まってきた近頃では、半袖で生活するにはもう肌寒くなってきた。
全国大会は終わったが、高等部への持ち上がり組が多い氷帝では三年生はいまだ引退していなかった。引退は冬になる頃で、その時に部長が本格的に交代し、三年生は引退する。
次の部長は樺地の同輩の日吉若で、三年生が引退するまでには跡部に勝って下剋上するのだと息巻いていた。

大会という明確な目標もない穏やかな今が、樺地は好きだった。
勿論部活内でトーナメントがある。二年生の樺地は一軍から落ちないようにトーナメントで勝ち抜かなければ二軍落ちしてしまうから必死だ。全国大会優勝に向けて練習していた春や夏だって楽しかった。

けれど、今のような心の余裕はなかったように思う。

途中で教室に寄り、机の横のフックに引っ掛けてあったブランケットの包みを手に屋上へと足を進める。ブランケットは樺地のものだが、自らのために用意したものではなかった。持ってきた早々に役立ちそうで、なんとなく得した気分だ。
部活に向かったり帰宅する同級生たちに言葉短く挨拶を返しながら歩みは止めない。部活まであと少し。廊下は走ってはいけないから、自然と早足になる。何よりあの耳の奥で反響する歌声をちゃんと聞きたい。

階段を登りきれば、屋上の扉は少し開いていて、歌声が漏れて聞こえてくる。心が弾むのを感じながら、樺地は扉を開けた。

「あ、樺地だCー」

今の今まで探していた人物が笑いかけてきて、思わず目を見開いた。冷たいだろうコンクリートの床にだらしなく寝そべっているのは芥川だ。いないと思ったらこんなところにいたのか、なんて思いながら、同時にああやっぱりな、とも思う。彼の歌を独り占めとは羨ましい限りだ。

樺地が求めた人物は、芥川の向こう、フェンスに背中を預けて座っていた。目を閉じ、鼻歌さながらに歌詞のない歌を口ずさんでいる。
樺地や、そばにいる芥川すらも隔絶したような、不思議な空間を作り出していた。少し冷たい風がそのひとの栗色の髪を揺らす。幻想的な何かを感じながら、樺地は彼の――みょうじなまえの歌声に聞き入り、彼の作り出す空間に浸った。

「あ、かばじ」

歌声が途切れる。そのことを寂しく思い、名前を呼ばれたことに喜んだ。そうした小さな矛盾は、なまえとの付き合いではよくあることだった。それほどに樺地はなまえの歌を好んでいた。
ぼんやりとしたなまえの瞳が樺地を見ている。いつも無機質で無感情にも思える表情をその顔にたたえているなまえだが、瞳だけはいつも雄弁だった。どうやら今日は眠いらしい。芥川に歌をねだられたのだろうか、夢の世界に片足を踏み入れた状態で歌っていたらしい。

「じろ?」

「ウス」

お互い必要最低限しか喋らないのはいつものことだった。ふぅん、というなまえの言葉で会話は終了した。長袖のYシャツ一枚のなまえは寒いのか腕をさすりながらフェンスに頭を預けた。かしゃんというフェンスの揺れる音がやけに響く。遠くから聞こえる生徒たちの笑い声がまるで別世界のもののように感じた。

「……みょうじさん、これ、を」

「んん?」

持ったままのブランケットを差し出すとなまえは首を傾げた。広げて肩にかけてやると、なまえの目が緩んだ。持ってきてよかった。

「あー! いいなー!」

ブランケットに目をつけたらしい芥川が跳ねるように立ち上がると、なまえの横に座りこんだ。えへへ、と笑いながらブランケットの端を掴み、なまえごと一緒にくるまる。

「えへへーぬくEー」

嬉しそうな顔の芥川とは対照的に、なまえは無表情ながら嫌そうな空気を出していた。が、芥川は気づかない。これもいつものことだ。やたらと懐かれてしまったことをなまえは喜んでいないらしい。テンションの高い芥川についていけないのことを考えれば仕方のないことかもしれない。

「樺地も一緒に寝よう! な!」

ずりずりと尻をずらして真ん中にひとり分の空間をあけた芥川がぽんぽんと床を叩く。寝ようも何も、樺地も芥川ももうすぐ部活だ。寝ている場合ではないし、今の時点で跡部もお怒りのはずだった。

「なー樺地ー! ほらほら早くー!」

「……るさ……」

しきりに急かす芥川にうんざりしたのか、眉をしかめたなまえが芥川を睨み、樺地を見て、申し訳なさそうにあいた空間をぽんと叩いた。めったにないなまえからの要求に頬がなんとなく緩む。
跡部となまえを天秤にかけてはみるものの、珍しいなまえの要求にはやはり勝てなかった。

おずおずと差し出した一歩に喜んだのはなまえも芥川もだ。自分が真ん中というのは何かが違う気がしたが端に座るというのも失礼な気がして、落ち着かない気分になりながら腰を下ろす。
大きめのブランケットは三人でくるまるにはいささか小さかったが、それでも身を寄せれば十分暖かかった。

「あー……あったかいとねむくなる……」

「じろ、いっつも寝てる」

「へへ、まあそうかもー。でも……ねむE……」

うとうとしてきたらしい芥川が、こてりと樺地にもたれかかってくる。伝わる体温が温かくて、本当に眠いようだった。
優しい夕日の光とブランケットの暖かさに眠くなるのは人としての常なのかもしれない。現に樺地にも睡魔が訪れて、このままでは危ういと気を引き締めるも無駄なようで。芥川が寝た頃に、担いでテニスコートまで連れて行こうと考えていたのに。

「たまには、いいよ」

引き止めるようになまえが樺地の裾を掴む。

「たまには、いい」

そう呟いて樺地の腕に頭を預けたなまえに、そうかもしれない、と思った。たまになら、いいのかもしれない。こうやって部活をサボって居眠りするのも。だって全国大会は終わって、今は次の目標の前のインターバルなのだから。
だから、ちょっとだけ。少しくらいなら。

歌が聞こえる。腕に伝わる振動からも、なまえが歌っているのだとわかる。子守歌のような優しい歌声に誘われて、まぶたがゆっくりと落ちてくる。
ああ、彼の歌を聞いていたいのに。
そう思いながらも、睡魔には勝てなくて。心配した跡部に起こされるまで、樺地は二人にもたれ掛かれたまま眠っていた。


ふわふわとした意識の中、彼の歌声は穏やかに心に響いた。




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