部誌1 | ナノ


ふわり、微睡む意識の中に



 カラン、とグラスの中の氷が音を立てた。
 透き通ったマホガニーの水面にさざなみが立って、すぐにやむ。

 それをひとしきりじいと見詰めていた青年に、カウンターの向こうから男が微笑んだ。
 ベストにシャツ、蝶ネクタイとバーテンダーらしい服装の、これといって特徴もない割にやけにすっきりと整った面立ちの男だ。
 にこにこと笑う男は、久々の客だと言った。この一杯はサービスだとも。

「さ、お代は六銭だって取らない。飲むといい、すぐに気持よくいける」
「ドラッグじゃあるまいし。大体どこに行くっていうんだ」
「天国か、そうじゃなきゃ、地獄さ」

 こんなとこに来るやつは大抵、天国行きだけどね。まあたまには地獄行きも出るが。
 青年以外客どころか店員の姿もない小さな店内は静かで、穏やかに笑う男の台詞を聞き流せるほど青年の耳は遠くなかった。

「アンタ、何を言ってるんだ。大体、」
「ここがどこかって?お客さん、あんた表の看板見なかったのかい?」
「見なかったよ、それどころか、俺は……俺は、この店に来た覚えもない」

 困惑したように瞳を揺らした青年は小さく首を振った。
 薄暗いバーカウンターも、微笑を浮かべたバーテンも、そこへ至るまでの道筋も移動手段も、彼にはまるで覚えがなかった。
 いつのまにか青年はそこに座っていて、気付いたら目の前の男に一杯の酒を差し出されていた。

「なあ、俺はついさっきまでビルの屋上にいたんだ。それがなんでこんなところにいる?」
「そこまで思い出したならあと少しなんだが。ま、いい。教えてやろうか。ここはな、自分の行き場所を見失った奴が来るとこだよ」
「行き場所、」
「そう。たまにいるんだよ、自分がどっちに行ったらいいのか分かんない、あんたみたいなのが」
「どっちって、どこに行ったらいいんだ」
「だから、天国か地獄さ」
「死んだわけでもないのに」
「死んだんだよ」

 あんたは、死んだんだよ。
 男が、言い聞かせるようにゆっくりと繰り返した。
 その言葉が聞こえる、その唇が動くのが見える、握ったグラスの冷たさを感じる。
 死んでいるなんて、悪い冗談だった。

「さあ、早く飲まないと氷が溶けるぜ。さっさと飲んで決めてもらわないと、俺も困るんだ」

 何がどう困るのか説明しろ、この鳥野郎。という罵倒の代わりに青年の口から零れたのは「何で、酒なんだ」という震えて間の抜けた問いかけだけだった。

「これが一番よく効くんだよ、老若男女国籍問わずな」

 さあ、と三度促されて、ようやく青年はグラスに口をつけた。
 一口、二口、三口。グラスから口を離さないまま、結局一気に飲み干した。

 くらりと、独特の酩酊感と目眩が青年を襲う。洋酒は苦手だった。
 グラスをカウンターの上に置いたかどうかも最早定かでない。

「そんな歳で、もうここに来るんじゃないよ、若い人」

 相変わらず笑っている男に、なんとかさいごに一言言わねばならないと、青年は微睡に引き込まれていく意識を奮い立たせて、唇を微かに動かした。

 その背中の真っ白な羽、似合わねーよ、おっさん。

 それで彼の話はおしまい。




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