蜻蛉のいのち@はあ、はあ…――。 荒い呼吸だけが聴覚を支配していた。他には何も聞こえない、完全なる無の空間で俺はひとりぽつんと佇んでいる。 しかしその形相は苦渋に満ち足りていて、傷付いた身体を小さく折り曲げていた。地面に突き刺さる刀を支えに、辛うじて立て膝で姿勢を保つ姿は何とも弱々しい。 全く、なんてザマだ。 痛みを堪え、ぐっと歯を食いしばる自分をこれでもかと言う程に嘲笑した。呆れ返るしかないだろう。近藤の一等刀が、真選組随一と呼ばれた男が、強きを信じて疑わなかった、――この、俺が。こうも容易く敗れてしまうなんて。 何か言おうと口を開こうとするがそれは叶わない。ひゅうひゅうと息だけが絶え間なく漏れ続ける。 強く、力の限りに柄を握り締めた。じわりと血が滲む。そうだ、俺は名前を知らない。アイツは誰だ。俺は――果たして、誰に負けたと云うのか。 俯けていた顔を上げた瞬間、闇が急速に遠退いて行った。立ち代わるようにして辺りは真白に染まりゆく。そしてその中でもある一点だけが神々しく光を放ち、また、その更に一点だけがゆらり陰ろう。 突如として俺の眼前に現れた、それ。余りの眩しさに思わず目を細めれば、次第に正体が黒く浮き彫りになる。 ああ、まさか、な。既視感に襲われたと同時に、俺は嫌みったらしく口元を釣り上げた。だって笑えるだろう。ソレは純白とは恐ろしく不釣り合いで。ソイツはどうも物騒で、場違いで。 俺の瞳が漆黒を捉えた。髪も眼も、服でさえも黒々としている。しかしそれ以上に、まるで鮮血に染まったかのような紅に目を奪われた。否、喩えではなく本当に血なのだろう。 それも、きっと、俺の、だ。 「……裏切り者は、俺だ」 冗談にしてはやり過ぎではないのか、今すぐその不貞不貞しい顔を殴り飛ばしてやりたいけれど、俺の四肢はぴくりとも動かない。ああ、最悪だ。寄りによって、お前なんかに。 「簡単に騙されたてめェが悪いんだぜ、総悟。恨むなら、弱い自分を恨むこったな」 何言ってんだ、俺は今まで無敗だったんだぜ。今日は偶々気分が乗らなかっただけなんだ。 悪態をつく俺の気持ちを知ってか知らずか、眼前に突き付けられた刀身が、にやりと赤黒く閃いた――。 「おいっ、総悟、」 「……んあ?」 「ったく、なに寝ぼけた声出してんだよ。……大体お前、今の状況が分かってんのか?少しは緊張感っつーものを持て!」 ああ、夢か。何てお決まりの台詞を言わせて貰う暇もなく、間髪を容れずに土方は苛立ちの声を上げた。俺は寝起きの不機嫌さに夢見の悪さが手伝って、ムッと顔を顰める。 やっぱり、この俺がこんな短気野郎に負けるなんて絶対に有り得ないのだ。 「何なんでィ。うぜぇよ土方、この上なくうぜぇよ」 「そりゃこっちの台詞だっ!どこに敵が潜んでるかも分かんねェんだ、呑気に寝てる場合じゃねェだろ!」 「……敵、ねぇ」 俺は苦々しく唸った。 丁度二刻ほど前のことだ、内密に推し進められていた筈の計画が、対象であった攘夷浪士共の逃亡によって破綻したのは。これに因り導き出された答えはひとつだった。真選組内部に内通者がいる、と。 誰が裏切り者であるか分からない今、隊士達は勿論のこと、誰よりも土方が神経を尖らせていた。真選組に失態という名の汚名を着せられたのだ、無理もない。俺はそうやってどこか他人事のように思っていた。 そして今、俺は全く別のことを考えている。頭ではくだらないと理解していても何故か心が訴え掛けて来るのだ。 ――もしも、もしも、だ。 「ねぇ、土方さん。敵は案外近くにいるもんかもしれねェですぜ」 「なに……?お前、ひょっとして何か知ってるのか」 「いえ、別にそういう訳じゃねェけど。ただ、ただね、」 「ただ?」 「……土方さん…、―――裏切り者は、アンタなんじゃねェの?」 ぽかんと、開いた口が塞がらないとはまさにこの事か。土方の表情は苛立ちから、一瞬にして驚愕へと変わって行く。 鬼の副長の間抜け顔は滅多にお目に掛かれるものじゃない。我ながら面白いことを言ったと、俺は土方に向けてほくそ笑んだ。しかしそれと同時にすっと鋭い視線も彼に突き立てていた。口は笑っているが、目が笑っていないのだ。 どうしてあんな夢を見たのか、なんて分かる筈がない。只々胸糞が悪いだけだ。ならば目覚めた時から胸を覆う、此の感情は何なのか。どす黒い塊が俺の中に燻っていることに、俺はまだ気が付かないでいた。 》to be continued.. ←back |