人を愛することは善なのだと、俺は信じて疑わなかった。人を憎むことこそが悪なのだと、俺は思い込んでいた。そして、そう思うだろう?とそれを優しい彼女にも強要していたのかもしれない――。 「今日も綺麗だな、それに…何だかいい香りがする」 「ありがとう。ディーノは流石だね、今日は新しく買った香水をつけてみたんだ」 「ふーん、香水?たまにはそういうのもいいな」 「良かった。臭いって言われちゃったらどうしようかと…」 恥ずかしそうに目線を逸らし、それから笑んだ口許。そんな姫に手を伸ばし、俺はその頬に触れるだけの口付けを施した。 ぎし、ベッドが軋む音がして引き寄せられるように二人の距離も縮まった。 「んな訳ねぇだろ?俺は、どんなお前でも好きだぜ」 「ディーノ……」 闇夜のムードに誘われて、いつものように俺は甘美な言葉を吐く。 すると何故だろう。途端に嬉しそうに綻ぶ筈の彼女の表情が、一瞬にして陰った。ほんの少しの戸惑いを見せて、長い睫毛を伏せ、そしてそれから何事も無かったかのように緩やかに微笑んで。 「…姫……?」 心配になった俺は思わず彼女の名前を呼んでいた。 さらり、長くて細い彼女の美しい髪を撫でてみる。しかし何でもないよ、と姫は屈託のない笑顔を向けるだけ。繊細な指を取り胸の前で握り締めてみても、同じことの繰り返しだった。 「…分かった。でももし何かあったら、遠慮せず俺に言ってくれるだろ?」 「もちろんよ」 「なら、いいんだ」 「うん、……本当に、何でもないの。だから大丈夫よ」 言葉にあった少しの間が気になった。そして、それから俺と一度も目を合わせようとしないことも。 姫は嘘を吐いている。 しかしそれ以上追及しようとはしなかった。彼女を一番愛している自信と一番近くにいる余裕が、俺にはあったから。 「そろそろ、寝よう?」 やっと目を合わせた姫は、それだけ告げると布団に潜り込んだ。 二人一緒に横たわり、俺はおやすみのキスをした。激しく舌を絡めることはせずに、でも濃厚で甘く深いそれ。柔らかな唇を奪い、最後に彼女の額を撫でた。 「ん。おやすみ、姫」 「…おやすみ、ディーノ」 ――けれど、 まさかそれが、最期のキスになるだなんて。思ってもみなかったし、思いたくもなかったのに。 翌朝、彼女が目を覚ますことはなかった。 それも俺の隣ではない。俺の部屋で一緒に寝た筈の彼女は、何故か彼女の部屋の椅子に座ったまま、動かなくなっていた。その姿はまるで居眠りをしているかのようで、しかし机上にばらまかれた錠剤は確かに自殺するためのものだった。 「姫…っ、姫……っ!!!」 気が狂ったように叫び続ける俺が掴んだ掌は、冷たく冷え切っていて。嗚呼。溢れ出る涙を止める術も知らず、震える唇から漏れた吐息。どうして。もう、言葉にすらならなかった。 訳も分からぬまま、それでもまだ生きていると信じたくて、乱暴に姫の服を剥ぎ取る。 ぷちん、飛び散った釦。しかしそれより先に視界に飛び込んで来たのは、俺の知らない所有痕。真っ白な肌に不釣り合いな紅が咲いていた。勿論、それは俺がつけたものでは無くて。 「どういう、こと、だよ…」 固まった俺の視線が次に捉えたのは、机上に置かれたアルバム。閉じられたそれを開けば、俺と姫が幸せそうに笑っていた。何枚も何枚も、丁寧に保管されていた二人の思い出。 俺と布団に潜ったあの後、彼女はここに戻り泣いていたのだろう。写真には所々滲み、ふやけた跡が残っていた。 「…ま、さか……?」 脳裏に浮かぶ文字はひとつだった。――“強姦"。 そう、どこの誰かも分からぬ男に彼女は犯され、そして消え去ったのだ。想像しただけで目眩が襲う、倒れてしまいそうだ。 怖くて辛くて苦しくて、それでも俺には言いたくなかったのだろうか。否、俺が言えなくしていたのかもしれない。争い事や他人を憎む事を嫌う俺だから、尚更。何度も愛を囁いてきた俺のせいで、打ち明けることも男を憎むことも出来なかったのか。 俺の愛し方こそが罪で、彼女を殺したのだ。 「ぅ、ぁあ、……っ」 俺は縋るように彼女を抱き締めた。ふざけるな。本当に俺に泣き付きたかったのは姫の方なのに。けれどどうしたら笑えるんだっけ、込み上げた嗚咽が冷静さをも掠め取る。 ごめん、最期まで綺麗事ばかり吐いてきて。愛ばかりを囁いてきて。お前に憎ませてあげることもできなくて。ごめん。 でも、本当に愛していた。 結局、誰も憎めない俺は、逃げていただけだったのだ。誰からも嫌われたくなくて。彼女を失った今、初めて気付いてしまったのは嘘ばかり蔓延らせていた俺という存在。 憎むことは悪じゃないよ、と。他人を憎むお前でも受け止められるよ、と。そう言ってあげられたならば、彼女は一人で抱え込むこともなかったのに。 昨日までの幸せを返してくれ。今更願ったところで、それは俺を虚しくさせるだけだった。 追悼、グッバイハニー←back |