月光ははじまりを告げた掠れた喘ぎ声に振り返れば、いやに色香の漂う一室が目についた。否、無数にそこら辺りから聞こえて来る。広い廊下を沿うように前から後ろから横から、妖艶な雰囲気が襲いかかる。眩暈がした。吐き気がする。 誰か、誰か――誰でもいい。わたしを連れ出して。差し出された片腕さえあれば、私はきっとこの悪夢から逃がれられる。 「う……っ、あぁ、」 「あっ、あ」 あちらこちらの襖からそれぞれ違う声。よく聞けば見知った人の声もある。――どうしてこうなってしまったのだろう。 耳を塞いで、私は襖の前に膝を付いた。月明かりが青白い肌を照らす。竹刀を握っていた頃とはまるで違うその両腕にぞくりとした。 私は手のひらをぎゅっと握り締めると、震える唇を動かし、そっと襖を開けた。 「――…失礼致します。お時間で御座います」 顔を上げた刹那、冷たい風が頬を撫でた。ぶるりと小さく身震いをしながら、あれ……?私は常とは違う雰囲気に小首を傾げる。情事を匂わせるあの独特の香りもなければ、花魁の着物も乱れていない。 ついっと視線を巡らせれば、開け放たれた障子の先、まんまるい月が目に飛び込んで来て。その縁で紫煙をくゆらせながら、男が満月を見上げていた。 「もうそんな時間か」 黒髪が月明かりに照らされ、艶やかな輝きをきらりきらりと放っている。私は思わず目を細めて、黒い着物に身を包んだその男の横顔を凝視した。――不思議な雰囲気を纏ったひとだ、と思った。そして同時にそれを、美しいと、そう思った。 男が此方を振り返った。私はどきりとして慌てて目を逸らす。男はさして気にしていないようで、ゆらり、立ち上がると、煙りを吐き出し、言った。 「感謝するぜ、また頼む」 その言葉を受け取った花魁は晴れやかな表情を浮かべると、「わっちが土方さんのお役にたてるなんて光栄でありんす」と微笑んだ。――土方さん、というのか。私は名前を知れたことが、何だかとても奇跡のように思えて、喜びに舞い上がる。 思えば初恋なのかもしれない。こんな一見しただけで些か奇妙ではあるけれど。しかしこの時既に遅く、私はすっかり魅入られて、しまっていたのだ。 「土方さまっ、お出口までご案内致します」 上擦った声音でそう告げれば、厚かましく土方さま、などと呼んでしまった恥ずかしさに赤面してしまう。あァ、と頷きが返されたと同時に、土方さまの視線が初めて私と交わった。 どくん。心臓がバクバクと音をたてている。次第に体内を駆け巡る熱が首に、顔に、耳に集まってきて、私を悩ませた。 そんな様子に気付いてか、土方さまがほんの少しだけ笑みを浮かべたように思えた。私に向けられた、それ。恥ずかしさと嬉しさでどうにかなってしまいそうだ、と睫毛を伏せながら、思うのは。 ――このひとだったならば、よかったのに。 まやかしに溢れた世界から私を連れ出してくれるのが、土方さまであったなら――きっとそれ以上の幸せはないだろう。有り得ないとは分かっていながら、その漆黒の着物の裾を掴んでしまいたかった。だがそんな勇気などないから、私は今もまだ此処をさ迷っているのだ。 「――おい、お前、名前は」 土方さまの眼差しがやわらかく私を包み込んでいる。私は出来る限り平静を装い答えた。 「姫、と申します」 「……そうか。良い名前だ」 先程までと打って変わったやさしい声音に目を見開き、振り仰げば、土方さまは消えていて、――次の瞬間、私は土方さまの腕に抱き上げられていた。小さく悲鳴を零す私を落とすまいと両腕に力を込めながら、土方さまは花魁の方を振り向くと、 「姫はこのまま貰っていくが、いいよな?」 くすくすと笑う花魁の「お好きにしなんし」という返答に、まるで悪巧みをするかのような意地の悪い笑みを作った。幸い、花魁ではない私は薄い着物一枚という装いで、その腕にすっぽりと収まってしまっている。土方さまは襖を片足で豪快に開け放った。 「あ、あの……!なんでっ」 「お前が連れ出して欲しそうな目ェしてたから、何となく、だよ」 俺の気紛れだと思えばいい、と言いずんずん歩を進める土方さまに私は頬を赤らめた。――何故分かってしまったのだろう。伝わる体温がもどかしい。 周囲の奇異の視線もお構い無く、土方さまは私を外の世界へ連れ出した。夜風が全身に吹き付ける。うっとりと瞳を瞑れば、土方さまの手のひらがくしゃり、私の髪を静かに撫でた。 たったそれだけのことなのに、胸の内は異常なまでに緊張して。――それでも、と。私は震える指先をつっ、と伸ばした。土方さまの裾に軽く触れ、それから縋り付く思いで強く握る。 至極穏やかな月光が降り注いで、土方さまの顔を照らした。初めて見た時とは違う雰囲気、またそれとは別の、表情。 「付いて来れるな?」 ――この一瞬、そのたった一言が、私を闇から掬い上げてくれた。 ←back |