傷だらけの月を抱く





「――どうしたら、楽になれるかなあ?」



傷だらけの心を抱いて、彼女はさめざめと泣いていた。彼女が欲してくれさえすれば、俺は何でも分け与える覚悟も気概もあったのだけれど。彼女は何も望んではくれなかった、いつだって独りで心臓にナイフを突き立ていた。



「……」



俺は足りない頭で必死に言葉を探したが、遂にそれは見つからないまま、沈黙となって二人の空間に影を落とす。


迫り来る哀しみと幾日も戦い続ける彼女をいつも見ているだけの自分自身に、心底嫌気が差した。俺は、役立たずのままで終わるのか。彼女の支えになれはしないのか。否、このままで良いわけがないだろう。

泣き明かす彼女の目蓋は重く腫れていた。俺は唇をきつく噛み締め、それからやっと感情を声に乗せた。



「それでも好き、なのかよ」



彼女は小さく首を傾げた後、なにが、とは聞かなかった。俺が暫し言葉を待てば、混み合った思考を回転させた彼女はひとつ頷いた。それから反芻するように、もうひとつ、頷いた。ポロリと涙が零れて震える唇を湿らせる。



「そっか。いや、いーんだよ。知ってた」

「……ありがと」

「気にすんなって。無理しなくていーから、俺ァ絶対誰にも言わねーし、安心しろよ」

「違うの、銀ちゃん――…ありがとう」



ありがとう、ありがとう。彼女は譫言のようにそれを繰り返し繰り返し呟いた。涙がボロボロと溢れて、情緒がどうにも不安定だ。……それも当然か。

俺は指先を伸ばし掛けたが、触れるか触れないかの所で引っ込めた。どうにも後ろめたさが付きまとい、そのまま行き場を失った手で髪を無造作に掻き回した。


――彼女には愛する男がいた。結婚するのだと、俺に嬉しそうに、多分俺が見て来た中で最も幸せそうな笑顔で、報告もして来た。俺は彼女が幸せならそれでよかったのだ。恋情も嫉妬も全て固く蓋をして、二度と浮かび上がらないようにと胸の奥底に落とし入れさえした。

しかし、男は貪欲だった。悪徳商人と手を組み、挙げ句の果てには彼女を捨て、金のある女と一緒になった。


俺は今も後悔している。どうしてこうなる前に、彼女を奪い去ってしまわなかったのか。どれだけ憎まれたって構わない、彼女が苦しむ姿など見たくはなかった。ただ、俺は、彼女には笑っていて欲しくて――。


ありがとう、なんて。言われる筋合いないのだ。俺は何にも出来なかったのだから。

顔を歪めて俯けば、カーペットに染みた水分が大きな池を作っているように見えた。俺は慌てて顔を上げる、彼女が沈んでゆくような気がして。しかし驚いたことに、彼女はぴたりと泣き止んでいた。



「銀ちゃんがそんな顔する必要、ないよ。だってわたし……救われた。銀ちゃんが、救ってくれた」



俺は目を見開いて呆然とした。救われた?俺が救った?いや、俺は何もしていない。現に今も――兎みたいな目をして、鼻頭も頬も赤くして、それでも彼女は一人で必死に立ち上がろうとしている。



「ありがとうって、本当に思ってるんだよ。本当に本当に、思ってるんだよ」

「姫……、俺は、何も」

「違うよ。……傍に、いてくれた。あれからずっと、隣で支えてくれた」



声を掛けることも触れることすら出来なかった俺を彼女は必要としてくれていた、というのか。俺が遠慮がちに彼女を見詰めれば、彼女は儚げに笑った。しかしそれは今にも壊れてしまいそうで、堪らなくなった。目元を擦る細くて白い指。

俺は姫、と彼女の名前を小さく叫び、そしてその小さく丸められた身体を精一杯抱き締めた。壊れるのならば、俺の腕の中で、俺の温もりに包まれて…――俺は何があろうと絶対に、彼女を手離すことはしない。



「楽にしてやるよ。俺が、あんなヤツ忘れるくらい、お前を満たしてやるから……っ」



お前の隣を、俺にくれよ。

何時でも触れられるように、何時でも笑い合えるように、俺の隣には、お前が居て欲しくて。



「足りないなら、銀さんの幸せ全部あげたっていーんだぜ」



だから他人ではなく、彼女の一番の笑顔を見るのは自分であって欲しい。彼女を幸せにするのは、自分でありたい。――ずっとひた隠しにしてきた、叶えたかった願いが今になって顔を覗かせる。幼稚な独占欲さえ、今は俺を突き動かす原動力となり、純粋な愛情へと昇華した。



「昔っから、そうだね。銀ちゃんは、ヒーローみたいだ」

「姫だけの、な。お前が俺をそうさせたんじゃねーの」

「……狡いよ?弱ってる時につけ込もうなんて」

「うっせー」



彼女はくすりと微笑した。少しだけ、いつもの彼女に戻った気がした。柔らかな声音が耳をそっと撫でる。



「ねえ、……いつから、好きだったの?」

「――もう、ンな昔のこと忘れたわ」



長い長い夜が明ける。開け放しの窓から冷たい風が吹き入れて、心地よさに瞳を閉じれば、どこからともなく太陽の匂いがした。――きらり、輝いた、最後の雫。






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Title Thanks:空想





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