何時だって、抱き締める準備はできていた





ぽろり、ぽろり。泪が零れた。とてもとても悲しかった。胸が張り裂けそうに痛い。痛い。ドウシタンダイ?そう問われても答えはまだ判らない。

だんまり沈黙を決め込んでいると、今度は息苦しかった。ぶくぶく。暗い底へ底へ沈んでゆく。慌てて真下を見れば暗闇が大きな口を開けて待っていた。怖い。怖い。必死にもがいて頭上を仰げば藍色のベールが透さないよ、と笑っていた。


嗚呼。嗚呼。知ってしまったのだ。此処には何もないと。入口も出口もすっかり姿を隠してしまって。狡いなあ。酷いなあ。置いてけぼり?

そして、わたしは、――光を見失った。





「最近、調子どうよ?」

「相変わらず、かなあ」

「そ。友達、できた?」

「う〜余計なお世話!」

「わり。上司はどう?」

「多分、ね、優しいよ」



昨晩の夜は蒸し暑かった。だからだろうか、今朝の夢見も最悪で。正直、汗ばんだ身体が不快で、通話を切り早々にシャワーを浴びたかった。彼はそんな私の気持ちを電話越しでも察したのか。いつになく簡潔な問いを幾つか繰り返し、それに私も短く答えた。

そして彼はじゃ、朝から悪かった、と言って切ろうとした。


しかし私はもっと彼の声を聴きたくて、まだ終わって欲しくなくて――。あれ。矛盾しているのだろうか。けれど根底にあるのは実にシンプルな感情で。



「ま、待って銀ちゃん!」

「ンな慌ててどうしたよ」

「あ、あのさ、その……」

「うん?なーんですか?」



低い声が鼓膜を揺らす。私はそっと目を閉じて、その声に全身全霊で耳を傾けた。直接会う時よりもずっと穏やかな声が好きだった。ただそれだけだけれど、それ以上はない。銀ちゃんと話すのが、――好きだ。


しかし特に呼び止めて話す話題など私は持ち合わせていない。元々口下手な自分を恨む。だから、せめて、と。



「つ、次はいつ会える?ほら、引っ越しの日からまだ一度も会ってないでしょ」

「んー…どうかなァ。俺もお前も今は忙しい時期だし、」

「でも、仕事にも休憩時間はあるよ……?」

「や、仕事の合間に会うとか大変じゃん?姫の負担にはなりたくない、っつーか」

「わ、私は大丈夫だから」

「ンな無理すんなって。ゆっくりでいーからまずは仕事に慣れよーぜ」



――違う、のに。


彼は、銀ちゃんは、温かい言葉を柔らかい声音で伝えてくれる。本当に私を想って、心配して、労ってくれている。分かってる、銀ちゃんが優しいことぐらい。分かってる、わかってるのに……。


――不安、なんだよ。


銀ちゃんには私の本音が伝わらないのだろうか。銀ちゃんには分かって貰えないのだろうか。いや。私も銀ちゃんのこと、全然知らないじゃないか。彼を責める資格なんて、ない。

胸が熱くなる。荒波のように感情が込み上げて来る。



「――…う、っ」

「おい?姫、どーした?」

「な、何でもない……っ」

「なに、言って……、え、泣いてんの?」



上京して初めての一人暮らしだった。都会生活は未知の世界で、田舎者には右も左も分からない。慣れ親しんだ友人も家族も居ない。しかし俺がいるから、と。任せろ大丈夫だから、と。私の手を掴んで引き寄せてくれたのは銀ちゃんだったじゃないか。なのに、どうして。どうして私はこんなにも寂しいのだろう。孤独感が胸を支配して、押し潰されそうだ。


ねえ、銀ちゃん、あのね。



「我儘かも、しれない……けど……っ、」



――これは、私のエゴ。

彼に付いて行くと決めた。けれど、一度握った手なら最後まで引っ張り上げて欲しいと、願ってしまって。紡がれる、わたしの本当の心。



「今すぐあいたい――…です」



涙でぐしゃぐしゃな私の向こうで、銀ちゃんがふっと笑った。それから嬉しそうに、とても嬉しそうに、淡い溜め息を漏らして。わかった、とひとつ。



「あァ…――迎えに行ってやるよ、いま、すぐに」



駆け出す足音が聞こえる。携帯の通話は切られないままだった。ざわざわと人の声も雑音も全部漏れているのに、私の耳にはただ、その足音と彼の息遣いだけが聞こえていた。

呼吸すら忘れて、最後の涙がゆるりと頬を伝い落ちる。私の心に降り注いだ光。闇を打ち払う一閃の輝き。


そして、わたしは、―――。





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