307号室のゆうれい@





とある昼下がり。住宅街の一角に、そのマンションは在った。私は307号室の窓枠に腰掛け、ベランダに足を放り出す。買って来たばかりのビニル袋の中身を無造作に漁りながら、いつもの風景を眺めていた。




「お宅の上の階、怖いわねえ。本当にお気の毒ねえ」

「ええ、えぇ。大家さんったらそんなこと一言も言って下さらないのよ。知っていたら……、ねぇ?」

「あら、引っ越しを考えてるの?」

「当然よ。これじゃあ夜も眠れないわ」

「本当に怖いわねえ、――307号室のゆうれい…!」




蛙がやかましく喚き立てている。もう梅雨かあ、なんてぼんやりと水田を眺めながら、私は手に持ったアイスキャンディーをペロリと舐め上げた。

蛙の声は嫌いだった、けれどそれ以上に――、チラリと、玄関口を占領して井戸端会議を続ける小母さん達を見遣る。よくもまあこの蒸し暑い中、二時間も話し込むことがあるものだ、なんて。感心しつつも、不快感に顔を顰めた。



「なにも知らないくせに」



ぽつりと呟くが、それも蛙の音に掻き消された。

アイスキャンディーを口に含み素早く抜き去ると、棒には機械的に描かれた"あたり"の文字。このじめじめとした空気の中、相反して輝き続ける太陽に翳してみると、何故だか無性に腹がたった。



「なんか、機嫌悪くねェ?」

「当たり前でしょ?ソーゴも少しは腹立てなよ」

「いやァ……俺は別に」

「なんでよ」

「だって、俺も、実際幽霊が住み着いたマンションなんて気持ち悪ィって思うんでね」

「もうっ、バカ!」



空き部屋のないよう埋め尽くされたこのマンションで唯一、無人の307号室、そこにソーゴは住んでいる。無人なのに住んでいる、とは間違っているかもしれないが、事実なのだから仕方ない。ソーゴは、正真正銘、ホンモノの幽霊だった。



「つーかさ、いい加減、ここ来んの止めた方がいいぜ?無人の部屋、しかも幽霊付きーなんて話題の部屋に入り浸ってたら、アンタが不審に思われまさァ」

「わあ、なにそれ、心配してくれてるの?」

「そんなんじゃねーし」



ソーゴはふわり、と私の背後に降り立つと、私の背中にとん、と手を乗せて。といっても、実際は感触なんてあるはずもないから、何も感じないのだけれど。私が不思議そうに首を傾げていると、彼の手が私の身体を貫通し、その指先が丁度胸の真ん中辺りから突き出て来た。



「何でなんだろうね。何で私にだけ、ソーゴが見えているのかな」

「さあねィ。そもそもアンタは、幽霊とかオカルトな話、信じないんじゃなかったっけ」

「信じてないよ。でもソーゴは別」

「ははっ、矛盾してまさァ」



そう、矛盾。すべて矛盾だらけなのだ。けれど私は、ソーゴの存在だけは信じていた。見えているのは私だけ。その私が否定したらソーゴが消えてしまいそうで、――怖かった。

確かに、それは私の思い上がりなのかもしれない。ソーゴは私が見ていようと見ていまいと、ちゃんと此処で存在している。それでも、私はソーゴの傍を離れたくなかった。



「ところで、さっきから何してるの」



私は怪訝そうに尋ねる。ソーゴが先ほどからずっと、私の胸の前で片手をグーパーグーパー握り続けているからだ。

ソーゴは、へ、と素っ頓狂な声を出してから、それから大声を出して笑った。



「こんなにも簡単に女の胸に触れる便利な身体なのに、感覚がねーなんて……勿体ねェと思いやせん?」

「――はあっ!?」

「そう怒んねーで。女の胸は男のロマンなんだぜ、これが男の性分ってもんでさァ」

「……っ、さいっってい!」



勢い良く飛び上がると、そのまま、ソーゴの腕が私の身体を真っ二つに割っていく。その様を見て、何故だか目に溜まった涙が零れ落ちた。あまりに自然に流れるそれに気付けずにいると、ソーゴが泣き虫、と茶化して来て。



「違う違うちがーう!私は怒ってるのっ」



これは生理的な涙だと言い張って、立ち上がった私はビニル袋をひっつかみ、そのまま玄関へと足早に向かった。後ろからソーゴの笑い声が聞こえて来る。

どうして、こんなにも胸が苦しいのか。どうして、こんなにも悲しいのか。自分の涙の理由さえ分からなくて、それでも、また雫は頬を伝った。


私は靴を履くと、ソーゴに背を向けたまま叫ぶ。



「また来る!」

「もう来んな、ばァーか」



ケラケラとソーゴの笑う声は止まない。私はソーゴのバカ、と言い返して部屋を後にした。

けれど扉が閉まる刹那、確かに聞いたのだ。――難しい顔ばっかしてたら、折角の顔が台無しだろ、と。とてもとても温かい声でそう呟かれたのを。


どうして彼は此処に在るのだろうか。私には知る由もない。誰とも分かち合えず、独りで居る孤独。一番辛いのはソーゴの筈だった。しかし、それでも弱味を見せようとはしない。



「……ソーゴ、」



私は知っている。ソーゴが幽霊だということを。元は私達と同じ、人間だということを。そして、誰よりも優しい青年であることを――。


ソーゴの凍り付いた仮面を剥がすのは私であって欲しい、そんな願いが私の胸を熱くした。






》to be continued..




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