ユートピアを目指して中庭にぽつんと佇む太い幹を見詰めた。随分と世話になった大木だった。視線を上向ければ、青い空がどこまでも広がっている。無数に伸びる枝先は好き放題に蒼天を目指していて、それはまるで私達の行く末を指し示しているかのようだった。 希望に満ち溢れた、私たち。 未来へ旅立つ、巣立ちの日。 待っている先が本当に、己の求める理想郷なのかを知りもしないで、胸に膨らむ夢だけを抱き締めていた。 「せんせい、」 「んー?」 「好きでした」 「……、おー」 ――なんて、甘酸っぱい。 私は隣で同じように宙を見上げている彼の服の裾を摘み、引っ張った。泣きそうになる。一瞬の気の迷いなどではなかった。ずっと前から好きだった、そして今はより一層好きになってしまっていたのだ。思えば、乙女の三年分の恋心が積み重なっているのだから恐ろしい。 本当に、愛しているんです。 あまり重い言葉を言いたくはなかった。それで先生を困らせたくはなかったから。私は嫌われるのが怖かった、だから本音は呑み込んで。けれどこれで最後にするから、と。行き場の無い、ただ膨らむだけの感情に終止符を打ちたかった。 「多分、好きでした」 「多分ってなんだよ」 「あれ。生徒にこんなこと言われて、驚かないんですか?」 「別に。知ってたし」 「……へ?」 「姫が俺を、特別な気持ちで見てたっつーこと」 嗚呼、先生は狡い――。 これでは私ばかり馬鹿みたいじゃないか。 そう、ですか。私は微笑む。色々な感情がごちゃ混ぜになっていてよく分からなかったけれど、身体は何より単純であるらしい。つう、と頬を伝った、生暖かさの正体に私は気付いた。恐らく先生も気付いている筈だ。穏やかな風と共に、柔らかな視線が注がれていたから。 瞳から流れ出した雫が根っこを濡らし、大木がほんの少し笑った気がした。 「そうだ、先生!一緒に写真撮って下さいよ!」 「はァ?何で急に……めんどくせー」 「ダメです!撮りましょう、一枚でいいですから」 「……ったく、しょうがねーなァ。撮りたきゃ何枚でも撮りゃァいいでしょーが」 「いえ、これが最後ですから。記念の一枚でいいんです」 にかり、とはにかんだ。涙なんて打ち消してしまう程に上手く笑えていたと思う。最後は笑顔で迎えてーなァ、昨日先生がそう呟いていたのを私は密かに聞いていたから。 良い思い出にしてしまおう。 将来この写真を見て、ああ馬鹿な恋をしていたものだと、酒の肴にでもして笑えばいいのだ。一枚しかないそれを無くしてしまったならば、それはそれでいい。兎にも角にも、この思い出はひとつに納めてしまうのが一番都合が良い気がした。 「え、ちょ、カメラで自撮りすんの?」 「誰もいないんだからしょうがないでしょ。ほら、入らないからもっとくっ付いて下さいっ!」 「ちょ……あーもう!セクハラで訴えられたらどーすんの!」 「私には関係無いんで!じゃあ行きますよ、…ハイチーズ」 ―――パシャリ。 二人でぎゅうぎゅう押し合い、何か言いたげに口を開いたままの銀八が固まった、あまりに不格好なその一枚。大切で掛け替えのない、唯一無二の時間。 離れていく温もりを名残惜しく思っていると、ふいに、彼の手が私の腕を掴んで。ひょいとカメラを取り上げられた。 「やっぱこれ、俺が現像に出しとくわ。だから暫くしたら取りに来いよ」 「え、どうして、」 「はァ、分かんない?……また会いたいっつってんの」 「せ、んせ……?」 「次会う時、お前はもう生徒じゃねーだろ。今度は一人の女として……会いてーんだよ」 ――察しろ、バカヤロウ。 そう乱暴に吐き捨てる、先生の声音はどこか優しくて……愛おしくて。私を見詰める先生の眼差しは今まで見て来たどんなものとも違い、やけに情熱的で、目が離せなくなった。 「俺は薄々気付いてたのに、姫は気付かねーもんな。あーホント冷や冷やしたわ」 「……っ、」 「なァ……先生がどんな想いでこの日を待ち望んでいたか、お前は知らなかったろ?」 卒業式なんて来なければいいのに、と、そう思う私の傍らで。早く卒業してしまえばいいのに、と、そう思う彼が居て。相反する気持ち、しかしその奥底に眠る根本的な感情は同一で。 ――貴方が、お前が、好きなのだ、と。 長い間、想い続けていたことはどうやら一緒だったらしい。彼が私を特別視していたことに漸く気付けた。なんて、しあわせ。なんて、うれしい。なんて、―――いとしいの。 「ありが、と……っ、ありがとう……、せんせー…」 小刻みに震える私の肩を、温かい腕が抱く。 「――姫、卒業おめでとう」 本当は何よりも求めていた、何よりも欲していた、彼の匂いに包まれて私はそっと瞳を閉じる。伝い落ちた涙を拭ったのは、先生の指先で。 自然と緩む口許に笑みを湛え、いま、私は愛しいその影に寄り添った。 ←back |