宗谷が風邪をひいた。

大人になって忘れかけていたが、こいつは昔は体が弱かった。
前に会長にそのことをチクったら、「ああ〜なんとなくそんな気がするわ」と返された。
納得されるだけの雰囲気を、宗谷はその身に纏っている。

事実ウン十年前に初めて宗谷と会った時に、彼を雪のような子だと思った。
今にも消えてしまいそうな、切ないような、儚いような。
小学校では教室で見かけるのと同じぐらい保健室で見かけた。
中学校に上がってからはそもそも校内で見かけなかった。
時たま私の家に訪れて、お土産とだけ言って渡して微笑んだ。
遠くに行ったとは思わなかった。
いつも気がついたら近くにいたから。

そんな宗谷もいつしかふてぶてしくなって、今では同じ家にいたり、超健全な意味で一緒の部屋で寝たりもしている。
いつしかか弱かった頃の片鱗すらなくしてどんどん元気に前へと突き進んでいったが、それでもやはり宗谷は変わらず宗谷のままだった。
いい意味で変わらなかったのが、少しだけ心の救いだ。

今日も今日とて宗谷んちでばあちゃんの手伝いをし、ワープロを打ち、全力で入り浸っている。
もちろん食費や光熱費も払っているが、たまにはここまで我が家のように入り浸っていいものか考えるときもある。
が、遊びに行くたびにばあちゃんが出迎えて言ってくれる「おかえり」という言葉を聞くたび、ついつい自分の家のように「ただいま」と返してしまうのだ。

「ばあちゃん、もし私が邪魔だったらホントに遠慮なく言ってくれて構わないんだからね」
「名前ちゃん、梅干取ってくれる?」
「あ、うん、はい」
「ありがとねえ」
「じゃなくて。ばあちゃん聞いてた?」
「うんうん、いいから早くアパート売っぱらってこっちに引っ越しなさいな」
「え、あ、検討します」
「じゃあこれ冬司のところに持ってってね」
「あ、え、はい。了解です」
丸め込まれた。

宗谷が布団に包まっているのは2階の私室だ。
あいつがおとなしく寝ているかどうかは別として。
薬と水と、ばあちゃんから受け取ったお粥をお盆に乗っけて、ぎしぎしと音の鳴る古い階段を上がる。
階段の先廊下を行って右側。
襖を開いて、すぐそこに敷かれた布団に宗谷が寝て…………なかった。

「案の定だな、オイ!」

布団に寝てないどころか、窓全開、鼻水ダラダラ、真っ赤な顔で譜面とにらめっこ。
窓際に座るな。せめて毛布かぶれ。

慌てて机にお盆を置いて、窓際、私が来たことに全く気が付かないそいつに近づき、スパァンと頭を加減しながらはたく。
そのままスパァンと窓を閉じ、でっかい子供を布団まで引きずってやる。
「ハイ、鼻ちーん!」
「ずずずずず」
「ハイ、布団かぶって!」
「熱い……」
「あえて熱くしてんの!」

風邪療法の基本を知らないらしい宗谷名人を布団でくるみ、無礼を承知で譜面を取り上げる。
「譜面を見るなとは言わないけど、せめて最低限治そうとする努力をしなさい!」
治りたがらない病人は病人じゃないって、三島由紀夫も言ってたろ!
そう言うとのろのろと布団を掴んだので、宗谷に譜面を返す。
「ばあちゃんがお粥作ってくれたから食べて、薬飲んで」
「梅?」
「梅」
風邪で味覚も鈍いだろうからちょっと濃い目の味付けにした、とばあちゃんが言ってた。
ふうふうとお粥の熱を冷ます宗谷の顔は真っ赤で、きっと朝とあまり変わらない体温に違いない。
それでもちびちび食べだしたから少し安心だ。
食欲があれば大抵の病気は大丈夫だ、と勝手に私は思っている。

体調不良でありながら、それでも半分を食べた宗谷によしよしえらいぞ、という意味も込めてぐりぐりと頭を撫でてやる。
されるがまま、どころか、もっと撫でろとばかりにこちらの手に頭を押し付けてくる宗谷。
髪の間から感じる湿った体温が、少し冷たい私の指先に心地いい。
「ん。名前の指、冷たくてきもちいい」
「あんたの体温もあったかくて気持ちいいよ」
なでているうちに寝そうになった宗谷をあわててたたき起こして、薬を飲ませる。
これでとりあえずはなんとかなるはずだ。

「はい。譜面は見ててもいいからとにかくあったかくして寝ること!いいね!」
「うん」
なんでだろう、こいつの返事が信用できないのは。
また後ですこし時間が経ってから様子を見に来ることにしよう。
「お水はここに置いとくね。それからいちおう紙袋置いとく。なんかあったら携帯で連絡して、下にいるから。ワン切りでも空メールでもなんでもいいから」
譜面を握ったままそれでも大人しく布団に横になった宗谷を見て、私は満足げにうなづく。
仕事の続きをするためにも1階に戻ろうと襖に手をかけた時。
「名前」
「あいよ」
さっそくなにか用事かな、と振り返った。

「なんで名前はここに住まないの」
「…………ほぇ」

爆弾が落とされた。初撃で致命傷である。
「アパート売っぱらってここに引っ越せばいいのに」
「…………はぇ」
いつかどこかで受けたような第二撃。我が軍は壊滅。撤退すら困難であります。
「名前がいないと家が寂しい」
「…………」
畳み掛けるような攻撃。もうやめて!名前のライフはもうゼロよ!

いつもと変わらない表情で宗谷が言った言葉。
何度かそれを反芻して、反射して、反響して……。
へなへなと襖の前に座り込んだ。
「え、あっ、それ、宗谷さん、それ、どういう意味で、ございますの、でしょうか」
「……?そのままの意味だよ?」
そのままってなんだよ!!

「一緒に暮らそうって意味」
そこで頭がショートした。

◇ ◇ ◇

気がつくと私は1階の畳の上で転がっていた。
ちらりと視線を上げると、ばあちゃんと目が合う。
何もかもがわかったような、優しいその目に追加ダメージを喰らう。
「とりあえず……引越し業者……」
ズルズルと畳を這って相棒のノートパソコンを引き寄せる。

いや、これはまだ、検討するだけだから。
まだ要相談ってところだから。
そう頭の中で言い訳しながら、それでも私には私の少し先の未来が見えていた。

(2014.12.21)
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